江戸時代

江戸時代の庶民の食事は贅沢だった「白飯、寿司、外食」

江戸時代の庶民の食事と言えば、一汁一菜、貧しくて楽しみもなく、栄養不足で短命のイメージが付きまといます。
ところが江戸時代の庶民、かなりの食通だったらしいです。

江戸時代に蔓延した病気に脚気(かっけ)があるのをご存じでしょうか?

脚気とは、白米ばかりを食べるためにおこる贅沢病。玄米や雑穀米に多く含まれるビタミンB1をほとんど含まない白米を多く食べたために起こる病です。

全身の倦怠感、むくみ、食欲不振、しびれなどを引き起こし、重い症状では死を招く病気です。
13代将軍徳川家定も脚気でなくなったと言われています。

奈良時代より食されていた白米。しかし白米は貴族や一部の裕福な人のみが食べられていた贅沢品とされていましたが、江戸時代になり庶民も病気になるほど豊富に食べられるようになったのはなぜでしょうか?

8代将軍徳川吉宗が行った「享保の改革」により米の収穫率が格段にアップ。

江戸時代の庶民の食事は贅沢だった「白飯、寿司、外食」

※徳川吉宗

水車による精米の機械化で精米技術とスピードもアップしました。
火災を防ぐため、炊飯は一度に大量に行われるために、痛みやすい玄米や雑穀米を避けるようになったことも庶民が白米を食べ始める理由といなっています。

1日2食の食事から3食に変わったのも江戸に入ってからです。

火災の復興事業で職人が多数流入し、肉体労働をする職人たちは朝晩の2食だけでは足りなくなってきたからです。
また灯りが使用されるようになり1日の活動時間が長くなったことも3食食べる理由となっています。

米のおかずはどんなもの?

一日に5合のお米を食べる江戸庶民、朝は炊き立てのご飯と味噌汁、昼は冷や飯と野菜もしくは魚のおかず、夕食はお茶漬けに漬物程度。

人気のおかずは、きんぴら、煮豆、切り干し大根の煮物、昆布や油揚げ、ひじきの煮物、白和え、おひたしなどです。
目刺し、たたみいわし、あさりの煮物なども食されますが、月に数度ほどだったようです。

外食やデリの始まり

江戸中期以降になると外食できる屋台や店も増え始め、後期では高級料理や居酒屋などの商いも始まります。
江戸の大火により焼失した町の復興の仕事する職人たちのすきっ腹を満たす屋台も多く出現します。

庶民の住まいの長屋には大した調理設備がなく、燃料費も高かったため、店頭で煮炊きしたものを1品すべて四文で売る煮売り屋(四文屋)で総菜を買ったり、立ち食いの屋台も利用されました。

店内で飲食をさせる居見世の鰻屋、天ぷら屋、寿司屋などができたのも江戸中期です。

江戸4大名物料理

江戸中期以降になると江戸庶民に人気の4大料理
「そば」「うなぎの蒲焼」「天ぷら」「寿司」
が確立されてきます

蕎麦

江戸初期から寒い夜などに、小腹が空いた庶民に重宝されてきた蕎麦
江戸中期以降、野田や銚子の関東醤油が江戸に出回り始め、鰹節からとった濃だし汁と合わせて蕎麦は庶民の間に浸透していきます

うなぎの蒲焼

江戸時代の庶民の食事は贅沢だった「白飯、寿司、外食」

※春の虹蜺 歌川国芳

うなぎの蒲焼のルーツはうなぎをぶつ切りにして串にさし、塩や味噌などで味付けして焼いた形が、がまの穂に似ていたため、がま焼きと称されたものが変化して蒲焼きとなったとされています。
現在のような開いた蒲焼の形になったのは、元禄13年大阪が発祥です。

江戸でもそれから10年後には食されるようになりました。当初鰻は屋台で売られ、屋台の蕎麦と同じ値段の16文で庶民の食事でした。

その後江戸後期になると料亭で出されるようになり、200文を超える高級料理へと変化していきました。

天ぷら

鯛の天ぷらを食べ過ぎて死んだともいわれる徳川家康
天ぷらは鉄砲の伝来と一緒にポルトガルから日本に伝わったとされます。
当時は油が高価だったために庶民の口に入るようになったのは江戸時代になってからです。

江戸中期に菜種油やごま油、小麦粉の生産高が上がり、移動せずに屋外で天ぷらを売る立売り(立ち食い)が庶民の間で流行り始めました。

江戸前でとれた芝エビ、貝柱、穴子、こはだなどの魚貝の揚げたての天ぷらを串にさして屋台で売るのが定番でしたが、江戸末期から明治にかけて店舗を構えた天ぷら専門店が増え始め、関東大震災で職を失った職人たちが日本各地に移り住み、江戸前の天ぷらが全国に広まりました。

これと同時に西日本の魚のすり身を揚げたものを天ぷらと称する揚げ物も関東に入ってきました。

寿司

江戸時代の庶民の食事は贅沢だった「白飯、寿司、外食」

※歌川国芳

寿司の起源は奈良時代、魚とごはんを一緒に発酵させて作る熟れ寿司ですが、江戸になり酢が作られるようになってから現在の寿司の形が現れます。

最初は関西発祥の箱に醤油で煮た椎茸やアワビ、卵焼きなどを詰めて上から押して作る押しずしが主流でした。この箱に入った寿司を切り分けて屋台で売っていたものが次第に1個ずつ、妖術使いの手印を使って握るようだと評判になった握り寿司へと変化して供するようになりました。

握り寿司が庶民の間で食べられるようになったのは11代将軍徳川家斉の頃とされます。

当時の握り寿司はおにぎりの様な大きさで屋台で売られていました。
職人一人で商うために、お代わりのお茶も出せないので、大ぶりの湯飲みで熱々のお茶を供するという現代にも残るルールが生まれたのもこの頃です。

江戸中期から後期にかけて、店舗で飲食ができる居見世が続々と増え始め、居酒屋、小料理屋、料理茶屋、高級料亭へと発展していきます。

元禄に上方から花開いた町人文化、「享保の改革」「寛政の改革」でその華も一度はしぼみかけますが、その後徳川家斉の時代にさらに化政文化として発展を遂げ、江戸は大都市へと成長します。産業の生産性が高まり流通が盛んになったことから庶民の懐も潤いだし、様々な料理が生まれました。

料理も生きるためから、楽しむためへと発展を遂げることとなっていったのです。

関連記事:
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「中世ヨーロッパ、貴族の食事、農民の食事」を調べてみた
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コメント

  1. アバター
    • もーりー
    • 2019年 9月 04日 12:54pm

    あの、21代将軍て何?しっかり確認しないと、せっかくいいこと書いていても、信用出来なくなりますよ。誤字だつじ以前の問題です❗️

    3
    1
    • アバター

      ご指摘誠にありがとうございます!
      21代だと明治突き抜けてしまいますね(汗)
      修正いたしました。本当にありがとうございます。

      2
      1
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