会津騒動とは
江戸時代の初め、会津40万石の筆頭家老・堀主水(ほりもんど)が、藩主・加藤明成(かとうあきなり)の失政を批判して出奔した「会津騒動」という幕府を巻き込む大事件があった。
その結果、加藤家は40万石から1万石への大減封となり、会津藩は3代将軍・徳川家光の弟・保科正之のものとなった。
最悪の結末を迎えることになった「会津騒動」についてわかりやすく解説する。
暴君! 加藤明成
加藤明成(かとうあきなり)は、天正20年(1592年)豊臣秀吉に仕えた加藤嘉明(かとうよしあきら)の長男として生まれる。
父・加藤嘉明は、賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」の1人として武功を挙げ、秀吉の天下取りを助けた武将である。
秀吉亡き後、嘉明は徳川家康に味方し関ヶ原の戦いで東軍として武功を挙げ、大坂の陣でも徳川方として参戦、豊臣恩顧の大名でありながら徳川政権下で生き残り、伊予20万石の大名となった人物である。
寛永4年(1627年)、会津の蒲生忠郷が亡くなり、死後の騒動で蒲生氏が転封となったために、嘉明が会津40万石の藩主となった。
明成はそんな偉大な父・嘉明の嫡男として育ち、何不自由のない生活をしていたことから甘やかされて育っていた。
寛永8年(1631年)9月、父・嘉明が死去し明成が家督を継いだが、明成の治世は古今武家盛衰記によると
「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」
と記されている。
また、大日本野史によれば
「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」
と伝えられている。
明成は父・嘉明とは異なる、いわゆる暴君だったのだ。
自らの私利私欲のためだけに民の年貢を引上げ、民の苦しみなどお構いなし、金銀や珍器を集めることを好んだという。
明成は、江戸時代に流通した金貨「一歩金」と明成の官命「式部少輔」を掛けて「加藤一歩殿」と呼ばれていた。
しかし、一方では会津地震で倒壊した若松城を建て直し、猪苗代湖の水を会津盆地に引き込むなどの土木工事を行っている。
先代からの忠臣 堀主水
堀主水(ほりもんど)は、元々の姓は「多賀井」であり、多賀井家は織田信長に仕えて紀伊の根来衆や雑賀衆と戦っている。
主水は成長してから加藤嘉明に仕え、大坂の陣では敵と組みあい、堀に落ちても相手の首を取ったことから「堀」姓を名乗ることを嘉明に許された。
主水は嘉明に重用されて会津に移ってからは3,000石を与えられ、明成の代になっても筆頭家老として国政に関わった。
先代からの実績もあり、戦国時代の武将としての気骨があった主水は、明成の素行に対して何度も諫言したが意見が合わず、二人の仲は次第に不仲になっていった。
事件勃発
ある日、明成の家臣と主水の家臣が喧嘩をするという事件が起こった。
一方は藩主の家臣で、もう一方は筆頭家老の家臣。奉行の権限では裁くことができず、明成による裁断を仰ぐことになった。
誰から見ても悪いのは明成の家臣だったのだが、明成は「非があるのは主水の家臣である」と裁いた。
さらに主水も連座として蟄居(ちっきょ: 家の中にとじこもって外出しないこと)を命じられた。
当然主水は納得がいかず、蟄居を破って明成のもとを訪れ、再度の裁断と処罰の無効を訴えた。
そして主水は明成に「先代・嘉明殿にはまったく似ていない主人だ!」と暴言を吐いてしまい、これに怒った明成は主水の家老職を罷免してしまった。
堀主水 出奔する
寛永16年(1639年)4月16日、主水は弟・多賀井又八郎ら一族と家臣300人を連れて、白昼堂々若松城から立ち去った。
主君・明成が参勤交代で江戸にいた時に出奔したのだが、普通に立ち去るだけなら良かったものの、主水の積年の恨みが爆発してしまう。
従者の持つ鉄砲の火縄に点火をしたまま城下を出て、少し離れた中野村から若松城に向けて発砲し、近くの橋を焼き落とし関所を押し破って出ていくという暴挙に出たのである。
このことを江戸屋敷で聞いた明成は「これは藩主を侮辱する行為で絶対に許さん!天地の果てまで追いかけて厳罰にする」と言って追手を差し向けた。
会津を出て南に逃亡した主水は、鎌倉で妻子を駆け込み寺の東慶寺に預け、自身は弟たちと共に高野山に逃げ込んだ。
鎌倉の東慶寺は「縁切寺」「駆け込み寺」と呼ばれており、妻からの離婚が難しかったこの時代の女性を守る寺であった。
また、高野山も男性向けの駆け込み寺のようなものであったために、明成が主水の身柄引き渡しを要求しても高野山はそれを断った。
明成は怒りのあまり「会津の所領に代えてでも主水を追捕する」と幕府に訴えた。
なんと明成は出兵の準備まで開始し、今にも高野山を攻撃する勢いだった。
これに驚いたのは幕府であった。聖地の高野山が攻撃されてはとんでもないことになると、高野山に主水の引き渡しを要求した。
それを知った主水は高野山を出て紀州藩主・徳川頼宣のもとへ行き「加藤家は昔こんなに豊臣恩顧だった」「明成は最近城を建て替えており反逆を企てているかもしれない」と訴え、明成の討伐許可を願い出た。
この訴えにより明成は詮議を受けるが、主水が会津を出る時に行った一連の暴挙を「藩主への反逆」と逆に訴え、紀州藩に引き渡しを要求した。
裁定
主水は紀州藩にも居られなくなり、江戸に出て幕府に「おのれのつみなきよしを申す」と訴えた。
しかし3代将軍・徳川家光は
「主水の言うことにも理はあるが、家臣はどのような主君であっても従うもの、ましてや城に鉄砲を放ち、関所を破ることは許されるべきではない」
と裁定し、主水と弟2人の身柄を明成に引き渡した。
こうして約2年に渡った会津騒動は、寛永18年(1641年)3月、主水と2人の弟の処刑と共に一旦幕を閉じたが、これでは終わらなかった。
所領返上
怒りが収まらない明成は、鎌倉の東慶寺にも兵を差し向け、主水の妻子を捕縛しようとした。
東慶寺の住職は豊臣秀頼の娘・天秀尼(てんしゅうに)であった。
大坂夏の陣で豊臣家が敗れた時に、秀頼の妻・千姫が、祖父・徳川家康に娘(天秀尼)の命乞いを願い、出家して東慶寺に入ることで許されたという経緯があった。
さらに天秀尼は「女性の救済を掲げる寺の伝統を今後も断絶しないようにしてほしい」と家康に懇願し、それを認められていた。
当然、天秀尼は明成の要求をはねつけた。
そして3代将軍・家光に「会津の無法を正すか、東慶寺を潰すか二つに一つ」とまで訴えた。
その結果、主水の妻子は守られて、寛永20年(1643年)4月、明成は
「病で藩政を執れなくなった。また大藩を治める器ではないから所領を幕府に返上したい」
と幕府に申し出た。
5月、幕府は会津藩加藤家の改易・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤などを考慮して、明成に1万石を与えて家名再興を許した。
しかし明成はそれに応じず、幕府は明成の子・明友に石見吉永藩1万石を与えて家名を再興させた。
明成は隠居して吉永藩で暮らし、万治4年(1661年)1月21日、70歳で死去した。
不自然?外様大名たちの憶測
会津藩には3代将軍・家光の弟・保科正之が入り、会津藩23万石が与えられた。
豊臣恩顧の大名であった加藤家は40万石から1万石への大減封、改易は逃れたがあまりの大減封に加えて後釜は将軍の弟である。
会津藩は奥州への玄関口であり、仙台藩伊達家の抑えにはうってつけである。
主水が高野山に逃亡した時に、明成が「会津の所領に代えてでも主水を追捕する」と訴えたことを、幕府は逆手にとったのではないか?との憶測が外様大名たちの間で広まったという。
おわりに
お家騒動は藩主の代替わりの時に起きることが多々ある。
会津騒動も新しい藩主と、先代から長く仕えた家老によって起きた。
堀主水も、当初は藩主を諌めるだけのつもりだったが、お互いに引かずに最悪の結末を迎えてしまった。
さすがに城に向けての発砲や関所破りはやり過ぎであったが、幕府はこの機会をうまく利用して外様大名である会津藩加藤家の力を削いだ。
内部抗争で利するのは第三者というのは、いつの時代でも同じである。
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