江戸時代

松尾芭蕉は隠密、忍者だったのか? 「奥の細道、不可解な行動」

黒羽

日光東照宮を4月2日に出発して那須の黒羽に入り、ここで芭蕉は3日~16日まで長い逗留をしている。

句会を開催して参加者から謝礼を貰って旅の資金としたそうだ。

名の知れた芭蕉の句会ということで武士や町人など様々な人物が訪れ、句会は情報収集の場となり、芭蕉と曾良はこれから向かうみちのくや仙台藩の情報を集めたとされている。

仙台藩へ向かう

白河の関 奥の細道の句碑 wiki c Kidanymore

4月20日、芭蕉は旅の前から越えてみたかったという「白河の関」を越えて、いよいよみちのくに入り仙台へと向かった。

仙台藩の初代藩主はあの有名な伊達政宗、62万石を有する東北最大の外様大名家である。

当時、仙台藩は新田開発に力を入れて米の大量生産に成功し、江戸で流通している米の3分の1は仙台産であったという。
同時に仙台藩は幕府が警戒する外様大名の代表格で、仙台藩の内情を幕府は知りたがっていた。

62万石を有し、米の売買で莫大な利益を上げている仙台藩に幕府が日光東照宮の工事を負担させたのは、豊富な資金力を削ぐためであったという。

謀反の動きはないか?資金源となる米の生産や流通はどうか?など、幕府は仙台藩の動きを把握したかったのだ。

実際に芭蕉と曾良は、仙台藩への内偵調査を疑わせるような不可解な行動もしている。

松島での行動

5月4日、仙台に入った芭蕉と曾良は青葉城(仙台城)などの名所を精力的に巡った。

松尾芭蕉は隠密、忍者だったのか?

松島 大高森の眺望 wiki c Kumamushi

5月9日、芭蕉が旅立ちの前に一番の目的地としていた松島に到着した。

芭蕉は松島を見て「扶桑第一の好風(日本一の絶景)」と称え感動しているが、何故か松島では句を詠まなかった。
おくのほそ道には芭蕉の代わりに曾良の「松島や 鶴に身を借れ ほととぎす」という句が掲載されている。

芭蕉自身は「感動で夜も寝られず句も詠めなかった」としているが、実は句作りよりも熱心に見た場所が「瑞巌寺(ずいがんじ)」であったという。

瑞巌寺は、初代藩主・伊達政宗が軍事用に建立したという噂があり、芭蕉と曾良はその調査をしたと推測されている。
この行動が芭蕉の目的が仙台藩への内偵であったとされる大きな要因となっている。

なぜなら、仙台藩を出た後、芭蕉は平泉では「夏草や 兵どもが 夢の跡」。
立石寺では「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」。
最上川では「五月雨を 集めて早し 最上川」と、後に名句中の名句と呼ばれる句を詠んだが、仙台藩では名句が生まれていない。

もしかして上記の名句は、「仙台藩の調査という目的を果たし、句作りに専念出来たから名句が生まれたのではないか?」との推測もある。

加賀藩

6月13日、日本海側の酒田についた芭蕉は北上して象潟につき、そこで美濃の商人・低耳(ていじ)と出会い、この先の宿などを紹介されたという。

日本海側を南下して「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」や「一つ家に 遊女も寝たり 萩の月」といった名句を作り、7月5日に金沢に到着した。

金沢では9日間逗留し、地元の俳人たちと交流を深めたという。

金沢での9日間の逗留には「加賀藩前田家を調査するという目的もあったのではないか?」との推測もある。

結びの地「大垣」

8月5日、山中温泉で体調を崩した曾良と別れて、芭蕉はこの旅の結びの地である美濃の大垣(おおがき)へと1人で旅を続けた。

8月末に大垣に到着。芭蕉が大垣を旅の結びの地とした理由は「大垣には気心の知れた古い仲間が多くいて、長旅の疲れを癒してくれる場所だった」とされている。

しかしここでも、本当の理由は違うという説がある。

旅を終えた10日後頃の9月4日に、芭蕉は大垣藩次席家老・戸田如水と面会をしている。
実は芭蕉はおくのほそ道の旅に出る前に、大垣藩士と会っていた。

日本海側の象潟で出会った美濃の商人・低耳も大垣藩の使いの者だった可能性もある。

大垣藩は実際に多くの忍者をかかえており、芭蕉の視察のサポートを担う実行部隊だったとも推測できる。

おくのほそ道 最後の句

おくのほそ道の旅の最後に、芭蕉が詠んだ句は

蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ (はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)

現代語訳:ハマグリのフタと身が分かれるように別れの時が来た。もう秋も過ぎ去ろうとしている。

であった。

蛤(はまぐり)は貝合わせに使われるように同じ物の殻しか合わず、一心同体の表現に用いられる。

芭蕉の一心同体の相手は、一説によると伊賀に残って松尾家の実家を守ってくれている兄・半左衛門だとされている。
芭蕉が好きな俳諧で旅が出来たのも、兄が故郷で家を守ってくれているからこそと思っていたというのだ。

家を出た芭蕉と家を守る兄、その2つの身が「ふたみ」。

芭蕉はみちのくの名所を句や文に綴ることで、郷里を出られない兄に旅の気分を味合わせたかったのかもしれない。

元禄7年(1694年)5月、芭蕉は完成した「おくのほそ道」を携えて、故郷の兄に誰よりも先に届けたという。

兄に届けた5か月後、芭蕉は51歳で亡くなった。

最期に詠んだとされる句は

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る (たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)

現代語訳:旅で病を患いながら、まだ私は夢の中で枯野をかけ巡っている。

であった。

結果的に芭蕉の最後の句となったが、これは辞世の句として詠んだつもりではなかった、というのが通説である。

隠密説での幕府の狙い

大垣市「奥の細道」結びの地 wiki c Kichiverde

おくのほそ道の旅の本当の目的(裏の目的)は、前述したとおり仙台藩伊達家62万石の調査と、加賀藩前田家102万石の調査にあったのではないかという見方がある。

仙台藩と加賀藩が手を組んでしまうと、江戸が巨大な外様大名に挟まれてしまうことになり、幕府はそれを恐れていた可能性が高い。

芭蕉の旅の前半は伊奈家、後半は大垣藩が担当したが、芭蕉の重要な弟子の中に彦根藩士で井伊家に仕える「許六(きょろく)」という人物がいた。つまり、芭蕉と彦根藩の井伊家にはつながりがあった。

隠密説では、おくのほそ道の黒幕は伊奈家でもなく、大垣藩でもなく、譜代筆頭の彦根藩井伊家だったのではないかともされている。

日光東照宮の修繕工事の責任者は井伊家であり、その工事を仙台藩にさせたのも井伊家である。

大垣藩は彦根藩の隣の譜代大名であることからも、説得力のある説である。

おわりに

おくのほそ道の本当の目的は、仙台藩伊達家と加賀藩前田家の調査が目的だった可能性を述べたが、本当に芭蕉が隠密だったのかは不明である。

だが、随行者・曾良が隠密だった可能性は高く、芭蕉がそのことを知らなかったということはないだろう。

俳諧師という立場で土木工事に精通している芭蕉が、曾良を手伝ったことは間違いはずである。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 2月 25日 2:01pm

    松尾芭蕉が隠密のような行動をしているなんて正直驚きました。

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 6月 04日 7:37am

    これは面白い、松尾芭蕉が隠密だったの?記事書いた人サイコー。

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  3. アバター
    • 名無しさん
    • 2024年 9月 22日 7:02am

    >元禄2年(1689年)3月27日、芭蕉は弟子・河合曾良(かわい そら)と共に深川を出発し、舟で隅田川を登り千住で降りた。
    >千住で芭蕉は空白の7日間を過ごしたとされている。
    >4月1日、芭蕉と曾良は日光東照宮を訪ねた。

    文章中に上記の様に記されています。3月27日に深川を出発して4月1日に日光を訪ねたのであれば「空白の7日間」が入る隙間はありませんね。矛盾していますよ。

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      • 草の実堂編集部
      • 2024年 9月 22日 7:40am

      ご指摘ありがとうございます。出立日については3月20日、3月27日諸説あり、補足が足りておりませんでした。
      この説の場合は通説の27日ではなく。20日出立ということになりますね。

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