根岸鎮衛とは
根岸鎮衛(ねぎししずもり・やすもり)とは、江戸時代の中期から後期の将軍徳川家重・家治・家斉時代の旗本で、田沼意次や松平定信が権勢を振るった頃に南町奉行を18年間も務めた名南町奉行である。
TVドラマなどで人気のある「遠山の金さん」よりも前に全身に入れ墨を入れており、それを隠してお裁きを下したという逸話がある人物である。
根岸鎮衛も「大岡越前」や「遠山の金さん」と違った意味で講談で注目を集め、小説やTVドラマなどで題材とされている。
豪傑で出世も早く上司や庶民からの受けも良かったようで、田沼意次から松平定信に権勢が代わってもその人柄と能力が評価されたという。
今回は数々の逸話がある全身入れ墨の名南町奉行・根岸鎮衛の生涯について迫ってみた。
出自
根岸鎮衛は元文2年(1737年)150俵取りの下級旗本・安生定洪の3男として生まれる。
鎮衛の幼名は河野銕蔵で、母が安生定洪の後添いとなり、安生姓を名乗った。
江戸時代の中期を過ぎる頃になると、御家人の資格が金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格は「御家人株」と呼ばれていた。
宝暦8年(1758年)下級旗本・根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤になった。
そこで父の定洪は根岸家の御家人株を買収して子・鎮衛を根岸家の末期養子という体裁にし、当時22歳だった鎮衛に根岸家の家督を継がせた。
御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般的にかなりの高額であるため同じ150俵取りの定洪が出したとは考えにくく、実は鎮衛は定洪の実子ではなく裕福な町家か豪農出身、浪人の子だという説もある。
また、年頃になった鎮衛は安生家に寄りつかなくなり無頼の生活を送っていたが、蔵前の米相場で金を稼いで22歳の時に根岸家の御家人株を買ったという説もある。
出世
鎮衛は根岸家を継ぐと、家督相続と同時に勘定所の御勘定という中級幕吏となる。
150俵取りの下級旗本からの大出世であり、裏で金が動いてた可能性は高いが真相は不明である。
勘定所の御勘定で頭角を現し、5年後の宝暦13年(1763年)には評定所留役に出世する。
評定所は現在でいう最高裁判所で、留役はその予審の判事である。
更に5年後の明和5年(1768年)には勘定組頭、安永5年(1776年)には42歳で勘定吟味役につき、布衣(ほい)を着ることを許される。
勘定吟味役は勘定所の職務全ての監査を担当する役職で、勘定奉行に次ぐ役職である。
布衣は、幕府の典礼・儀式に旗本下位の者が着用するものだが、普通下位の旗本の礼装は素襖(すおう)とされており、布衣の着用を許される者は六位相当の叙位者と見なされた。
鎮衛は勘定吟味役の在任時に、河川改修や普請工事にその才腕を振るったという。
日光東照宮や禁裏、二条城などの修復や東海道や関東の諸所の河川普請などを行った。
天明3年(1783年)浅間山の噴火の後、幕府はその巡検役として鎮衛を任命した。被災した村々を巡検した鎮衛は川越藩と協議し、幕府の救済方針を伝える大役を見事にこなした。
これらの功績によって天明4年(11784年)に佐渡奉行に昇格し50俵の加増となる。
天明6年(1786年)天明の大飢饉や天明の打ちこわしなどがあり、将軍・家治の死去によってそれまで権勢を誇っていた田沼意次が失脚し、代わりの老中首座に松平定信が就任する。
この政変に鎮衛は巻き込まれず、有能であることを買われて天明7年(1787年)には勘定奉行に抜擢され、家禄も500俵の蔵米取りから500石取りになった。
南町奉行になる
寛政10年(1798年)に鎮衛は南町奉行となり、なんと文化12年(1815年)まで18年間も務めることとなる。
南町奉行を務めた鎮衛には多くの逸話などが伝わっているので、ここで幾つか紹介しょう。
〇窃盗事件を担当した時、犯人は自白に至らなかったが証言者や証拠が揃っていたことで、それまで自白を決定的な証拠とする公事方御定書に拠らず犯人を死刑とした。
これは察斗詰(さっとづめ)と呼ばれる規定を用いたが、この時老中から今後についてはこのようなお裁きを繰り返さないようにとの注意を受けている。〇町火消しの鳶職と相撲取りとの乱闘事件(め組の喧嘩)では張本人だけを厳罰に処し、残りの者たちを軽罪や無罪とするなど前例に拠らない現実的な対処を行っている。
〇その反面、被告人の罪を軽くしてくれという請願が度々寄せられた。鎮衛は町方の世情に詳しかったので、このような請願を気軽に受け付けてしまっていた。だが、法を曲げる訳にも行かないために鎮衛は「何せ自分は老人故に、請願内容を忘れてしまうので、その場合は許せ!」という手を使っていたという。
〇役人としての推挙・推薦の願いも気軽に受けていたが、だからといって決して何かしらの行動に出ることもなかった。鎮衛は「才能がある人物がちゃんと長年努力すれば自ずと地位は向上するので、自分は何もしてやる必要はない」と常々言っていたという。
〇江戸川では船河原橋より上流での鯉漁が禁じられていたが、船河原橋の下で鯉を捕った者がいるという訴えがあった。この時に鎮衛は「橋の下というのは橋よりも下流だろう」と言ってこの訴えを退けた。
〇船が橋に衝突して橋が壊れるという事件が起きた時に、橋の所有者は「修理費は船の持ち主が負担してくれ」と訴えた。鎮衛は「天災だから我慢しろ」と諭したが、所有者は頑として譲らなかった。そのため鎮衛は「船が橋を壊したのだから橋の修理は船の持ち主が負担し、船が壊れたのは橋があったからなので、橋の所有者が船の修理をするように」と裁定した。
実は船の修理費の方が高くつくので慌てた橋の所有者は訴えを取り下げたという。〇町家が寺相手に茶漬け飯の売掛金として50両を請求し、僧侶が訴え出たことがあった。
茶漬けの代金で50両というのは高額過ぎるだろうと北町奉行が疑問を持っていると、鎮衛は「その町家はどこか?」と聞き、それが湯島天神の前だと知ると鎮衛は「子供の踊りを見過ぎたのだろう」と言った。実は湯島には男色を売りにする茶屋があり、それを隠語で子供踊りと称していたので、僧侶は顔を赤くして売掛金50両をすぐに払ったという。
鎮衛が南町奉行に就任したのは62歳という高齢であったが、18年間79歳になるまで激務の南町奉行を務めた。
ここまで長いのは「大岡越前」で知られる大岡忠相の20年に次ぐ在位期間であった。それだけ幕閣や庶民から信頼され人気が高かったということになる。
耳袋
鎮衛は入れ墨をした名奉行というだけではなく、その著作が有名であることで知られている。
佐渡奉行であった天明5年(1785年)頃から亡くなる直前までの30年以上に渡って書き続けた世間話の随筆集「耳袋(耳嚢:みみぶくろ)」を著した。
「耳袋」は全10巻1,000編にもなる随筆集で、同僚や古老たちから聞き取った珍談・奇談、公方様(将軍)から町人層まで身分を問わずに様々な人々の事柄について書いてある。
公方様や将軍家も楽しみにしていたらしく、毎年最初の話は艶話を交えていた。公方様が「今年のものはまだ出来ないのか?」と催促をしたという逸話も残っている。
また「耳袋」の中で鎮衛は自分の健康法についても触れており「宗右衛門の井戸」という名水を良く飲むことだと書いている。
「宗右衛門の井戸」の名水は1日1升を飲めば万病を寄せ付けないと言われ、鎮衛は毎日1升5合(約2.7リットル)も飲んでいたそうだ。
おわりに
根岸鎮衛は下級官吏出身のくだけた人物で、豪傑風で出世が早く上司や庶民からの受けが良かったので、大岡忠相や遠山景元とは違った意味で講談の題材として大きな注目を集めた。
全身に入れ墨を入れていたが人に見られないようにしていたなどの逸話も残っている。
文化2年(1815年)500石加増されて1,000石となり同年11月に亡くなった。享年79であった。
平岩弓枝の小説「はやぶさ新八御用帳」を始め、小説やTV時代劇などで題材とされ、現在でも人気のある人物である。
遠山の金さん以外に江戸町奉行で刺青をしたお奉行様がいたのですね・
知らなかった?両者とも庶民の受けが良く、遺棄で人情味がある点でも共通しているんですね。
これはわ、もしかきて編集部の記事だわないよね、
よくお気づきで(汗)rapportsさんの記事です。間違えていたので修正いたしました。ありがとうございます。