コレラの歴史
今回の新型コレラウイルスの大流行で、日本人である私たちもパンデミックという状態を身近で感じることとなった
ちなみにパンデミックとは「人獣共通感染症(伝染病)が世界的な大流行をみせること」であり、疾患、特に感染症の流行は、その規模に応じて
①エンデミック
②エピデミック
③パンデミック
に分類される。
このうち最も規模が大きいものがパンデミックであ理、世界流行、世界的流行とも言われる。
今回は、過去においてパンデミックが確認されたコレラについて解説する。
コレラは過去200年間に、7回のパンデミックが確認されている。
コレラはアウトブレイクを起こす病気でもあるが特定の地域では一般的な病気でもあり、現在もリスクがある地域はアフリカと東南アジアである。
死亡リスクはたいてい5%であるが、医療アクセスが乏しい地域では50%までに高まる。
コレラ菌自体は、1844年にドイツの最近学者ロベルト・コッホによって発見された。
生ものや水などによって感染し、これらは数ある感染症の中でも特に飲食との関係が深い。
名称
ラテン語表記はcholeraで、ギリシャ語のKhole、Chloe(黄色胆汁)に由来するもので、ヒポクラテスが唱えた四体液説の中の一要素である。
四体液説では人間の体液を四元素説に対応した四種類に分類し、黄色胆汁は四元素のうち「火」に対応した性状を持つものと考えられていた。
コレラは当初、この性状に合致する熱帯地方の風土病だと考えられており、また米のとぎ汁様のような下痢が胆汁の異常だと考えられたことから、この名がついた。
日本とコレラ
日本では、明治時代にこの感染症が知られるようになった。
当時は「虎列刺」という当て字が用いられた。
強い下痢と嘔吐に襲われ、当時なすすべもなく命を落とす者も多かった事から「三日ころり」とも称された。
日本へのコレラの上陸は文政5年(1858)のことで、長崎に入港した米艦ミシシッピー号の乗組員により持ち込まれたと言われている。
嘉永6年(1853)のペリー来航以降、下田、函館を開港して長く続いた鎖国政策に終止符が打たれ、それと時を同じくして外国から伝来した流行病として大いに恐れられた。
安政5年にコレラの全国的な流行とその予防・対処法について、幕領全域へ出された通達文の写しが残されている。
それによると、
臍の両脇一寸五分のところに折々伮治をして身体を冷やさぬ。
少し休んでも嘔吐・腹痛など、いつもと違う症状のある時は、早く寝所に入り、飲食を謹んで体を温め「芳香散」(漢方薬)を服用し医師へ見てもらうこと。
などと記されている。
明治になり、人や物の行き来が格段に活発になると流行の拡大も大くなった。
効果的な処方薬もなく、とにかく病人を隔離して接触を避けること、伝染毒はその吐瀉物にあることだけは知られており、洗浄法についても注意が促された。
現在と違い情報の伝達には時間がかかり上下水道も整備されていなかったことから、コレラの押さえ込みは難しかったようで、数年ごとに何度も流行のピークを迎えている。
青物魚軍勢大合戦之図
青物魚軍勢大合戦之図は、1859年10月、歌川広景によるもので、人間以外のものを擬人化させて戦わせるという構図を「異類合戦物」といい、錦絵の人気ジャンルのひとつとして室町時代から現れはじめた。
青物と魚類が戦うこの図の主題にはいくつかの説があるが、その一つに「安政のコレラ流行」がある。
コレラに罹りにくい野菜類とコレラに罹りやすい魚介類を戦わせ、青物が勝利するという構図になっている。
この絵が書かれた前年はコレラが大流行し、江戸では生もの、特に魚が全く売れず、野菜類は高騰したという。
治療法が確立していなかった時代、さまざまな民間療法や祈祷が行われた。
幕末には「コルクを焼いて粉にしたものを飲むとコレラに効く」ということが民間薬法として新聞に取り上げられた。
明治時代にはラムネがコレラ予防や症状緩和に効くという話が広まった。生水よりも炭酸入りの飲料が安全だということで、ラムネの人気が上昇した。
現在では、早期発見治療で致死率は1%以下のコレラだが、当時の人たちからすると恐るべき伝染病だったのである。
コロナでは?