大石進とは
大石進(おおいしすすむ)とは、江戸時代後期の剣客で柳川藩剣術・槍術指南役及び「大石新陰流(おおいししんかげりゅう)」の創始者であり、直心影流の幕末の剣聖・男谷精一郎とその高弟・島田虎之介と並び「天保の三剣豪」と呼ばれた男である。
7尺(約210cm)の長身に加え、5尺3寸(約160cm)の長竹刀(通称:物干竿)から繰り出す必殺の「左片手突き」は強烈で、天下無双の技とも称された。
九州各地を武者修行し江戸にやって来た大石進は、名だたる江戸の道場に次々と挑んだという。
江戸を席捲した九州の怪物剣豪・大石進の生涯について解説する。
生い立ち
大石進は寛政9年(1797年)筑後国柳川藩士・大石種行の長男として筑後国三池郡宮部村(現在の福岡県大牟田市宮部)に生まれる。
諱は「種次(たねつぐ)」、通称は「進(すすむ)」、後に七太夫と改名し、隠居号は「武楽」であるが、ここでは一般的に知られる「進」と記させていただく。
大石種次(進)の息子・種昌も、父と同じ通称で「進」としている。
進は4~5歳の頃から祖父・種芳に大石家が師範として担当する剣術「新陰流」(または愛洲影流)及び「大島流槍術」の剣術・槍術を学んだ。
父・種行は柳川藩の剣術・槍術指南役に加え、柳川藩の支藩である三池藩の指南役も兼ねていた。
しかし家禄は30石と少なく、2つの藩で剣術・槍術指南役を務め交際費がかさんだために、大石家はいつも苦しい(貧しい)生活を強いられたという。
進も馬を飼い門前の田畑を耕して家計を補ったために、満足な剣術の稽古ができず、ある年の正月恒例の御前試合では大惨敗をしてしまった。
思わぬ敗北に発奮した進は石を吊るして突き技を猛稽古した。そして胴切りと諸手突き、さらには生来の左利きを活かした独自の「左片手突き」を編み出した。
従来の「新陰流」の唐竹面、長籠手、袋竹刀の防具に代えて13本穂の鉄面、竹腹巻、半小手を使用するようにした進は、18歳の時に自ら「大石新陰流」と称した。
九州武者修行
文政5年(1822年)進は「新陰流」の免許皆伝を受けて武者修行の旅に出た。
まずは豊前国中津藩の長沼無双右衛門の道場を訪ねて試合を行った。
無双右衛門は門弟たちと進の立ち合いから進の技を観察し、用心して進との試合に臨んだが、進の鋭い「左片手突き」を止めることができなかった。
なんと進の竹刀は鉄面を突き破り、無双右衛門は眼球が鉄面から飛び出すほどの大怪我を負ってしまったという。
その後、進は豊後から久留米藩に武者修行に向い、なんと40人と立ち合って、ただの1度も負けなかった。
驚異の40人抜きの話は九州中に響き渡ったという。
文政8年(1825年)22歳の時に父・種行が亡くなると進は30石の禄を継ぎ、柳川藩の剣術・槍術指南役を賜った。
この時、3年前に対決した長沼無双右衛門が傷を養生し、門人18人を引き連れて進の門下に加わった。
この影響で入門者が九州各地から集まるようになったが、進は他国の門人には剣術だけを教えて、槍術は指南しなかったという。
江戸を席捲
天保3年(1832年)進は藩から聞次役を命じられて江戸へ出府、そのわずか3か月の間に進は江戸府中の名門道場に次々と試合を挑んだ。
7尺の長身と5尺3寸の長竹刀から繰り出す必殺の「左片手突き」に、江戸の名だたる剣客たちは進に屈してしまう。
この時、進に勝ったのは一刀流中西派の「中西道場三羽烏」の1人であった白井亨だけだったという。
白井亨は真新陰流の開祖・小笠原長治の幻の秘剣「八寸の延金」を研究し、それを自分なりに会得して「八寸の伸曲尺」を編み出した。
その後、「天真一刀流」の2代となり、自らの「天真白井流」を開祖した剣豪である。
この時、中西道場の同門で後輩の「北辰一刀流」の千葉周作が進と試合することになった。
千葉周作は、進の「左片手突き」を防ぐために樽のふたを竹刀の鍔(つば)に使用するなど工夫したが、引き分けに持ち込むのが精一杯であったという。
この時、進に負けた江戸の各道場は門人が去って大恐慌になり(門人が辞めて潰れるところがあった)江戸の各道場は震え上がった。
その後、進は「中西道場の三羽烏」の1人で「音無しの剣」と呼ばれた中西道場の師範代・高柳又四郎とも試合をしている。
この時、又四郎は「長竹刀は器械だ」と冷笑したために、進は定寸の竹刀で立ち合った。
1本目は両者40分も動けずに又四郎に胴を決められ、2本目は両者とも動けずに引き分けとなり、1本目を取った又四郎の勝ちとなった。
しかし試合後、進に感想を聞かれた又四郎は「1本目は拙者の負けでござる。貴殿の諸手突き、剣気を察しながら遅れました。何より拙者の竹刀が音を立てたのが証拠です」と「音無しの剣」の負けを認めたという。
幕末の剣聖との勝負
天保4年(1833年)進は当時「日本最強」と言われた直心影流・男谷精一郎と試合を行った。
実は進の当初からの目的は「当時最強の剣豪」と呼ばれた男谷精一郎との試合であり、各道場への挑戦はそのための腕試しであったという。
男谷精一郎は高柳又四郎との試合で検分役をしていたので、進の剣術を見ていた。
立ち合う相手から恨みを買わないように、必ず1本は相手に花を持たせたことで「君子の剣」と言われた剣聖・男谷精一郎は定寸の竹刀を使い、進はいつもの長竹刀で立ち合った。
だが精一郎はこの試合、進に花を持たせなかった。進の必殺「左片手突き」に対し、精一郎は頭を左右に振ってかわした。
そして進は何もできずに完敗したのである。
宿に帰った進は一晩考え抜き、翌日もう一度精一郎に試合を申し込んだ。
この試合、進は必殺の「左片手突き」の狙いを前日よりも1寸下げた。
すると精一郎は避けることができず、この試合は進の勝利となった。
精一郎は進の力量に感心し、諸藩の師範や高名な剣士の入門を斡旋したという。
男谷精一郎は前日に1本取ったので、もしかして進に花を持たせたのかもしれない。
これで進の名は全国にも知れ渡り、この年に帰国した進は倍増の60石となった。
晩年
天保10年(1839年)一旦帰国していた進は再び江戸に出府した。
すでに進の名は江戸中に轟いており、この時は旗本や諸藩の藩士たちがこぞって進のもとに入門したという。
同年9月3日、進は老中・水野忠邦邸に招かれ、直心影流・島田虎之介や田島岩尾らと技を戦わせたという。
直心影流13世で幕末の剣聖・男谷精一郎、その高弟・島田虎之介、そして大石進(種次)は「天保の三剣豪」と称された。
翌年、帰国した進は70石に加増され、100石高の軍役を申し付けられた。
弘化5年(1848年)進は名を「七太夫」とし、嗣子・種昌は父と同じ通称「進」とする。
嘉永元年(1848年)12月、嫡男・種次(進)に家督を譲り隠居して「武楽」と号し、種次は剣術・槍術師範代番となり「大石新陰流」の2代目となった。
この息子・種次も父と同じように剣技に優れ、容貌や技、態度まで父・進とそっくりであったという。
進は隠居料として15俵を拝領され、文久3年(1863年)11月19日、67歳で死去した。
おわりに
九州に敵なしの怪物剣豪と言われた大石進は、当時日本一と言われた「幕末の剣聖」こと男谷精一郎との試合を熱望した。
江戸の名だたる各道場を次々と打ち負かしたことで潰れる道場が出るなど、大石進の名前は九州だけではなく江戸の剣術界をも席捲した。
男谷精一郎から1本を取ったことで大石進の評判は上り、江戸から帰国する度に禄高が上って暮らしが楽になっていった。
進は、必殺の「左片手突き」で「天保の三剣豪」と称される人物になったのだ。
うわぁ~面白かった、剣豪好きな私にはたまらん内容でした、男谷精一郎や島田虎之介も載せて下さい。
絶対読みます。楽しみにしています。
幕末は外国の脅威から幕府が剣術を奨励したからスゴイ剣士が一杯出た中でも天保の三剣豪は別格らしいですね。
後の2人も紹介してください。
この他に九州には男谷精一郎と島田虎之介に全勝した加藤平八郎という凄い剣豪がいたんだよ!
この人も記載してください、草の実堂さん
幕末の剣聖・男谷精一郎のいとこで喧嘩日本一の勝海舟の父・勝小吉もわすれずに