鳥居耀蔵とは
鳥居耀蔵(とりいようぞう)とは、老中・水野忠邦の「天保の改革」の先頭に立った幕臣で、その徹底した弾圧策から人々は彼を「妖怪」と呼び、恐れたという。
南町奉行となった鳥居耀蔵は、江戸庶民のヒーロー「遠山の金さん」こと北町奉行・遠山金四郎とことごとく対立し、老中・水野忠邦と共に強権を発動し、遂には遠山金四郎を北町奉行から大目付へと栄転させるウルトラC級の荒業で閉職させてしまったのである。
水野忠邦の失脚後も自身は従来の地位を保ったが、水野が幕政に復帰すると報復されて有罪となり、20年以上も幽閉されてしまう。
今回は、遠山の金さんのライバルで「妖怪」と呼ばれた・鳥居耀蔵の生涯について解説する。
出自
鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、寛政8年(1796年)江戸幕府の大学頭を務めた儒学者・林述斎(はやしじゅつさい)の三男(四男という説も)として生まれた。
父方の祖父・松平乗薀(まつだいら のりもり)は美濃岩村藩の第3代藩主で、松平乗薀の実父は徳川吉宗のもとで「享保の改革」を進めた老中・松平乗邑(まつだいら のりさと)である。
林家は徳川家康のブレーンである林羅山を祖とする儒学者の家系で、いわゆる超エリート家系であるが、三男だった耀蔵の父・乗衡が養子として林家に入って跡を継いだ。(※林述斎となる)
同じように耀蔵も三男だったので、文政3年(1820年)25歳の時に旗本・鳥居成純の長女・登与の婿となり、養嗣子となって鳥居家の家督を継いで2,500石の身分となり、11代将軍・徳川家斉の側近として仕えた。
12代将軍・徳川家慶の代になると、耀蔵は老中・水野忠邦の配下となった。
「天保の改革」のもと渋川敬直・後藤三右衛門と共に「水野の三羽烏」と呼ばれ、天保9年(1838年)目付・勝手掛となったのである。
蛮社の獄
「天保の改革」では渋川敬直が学問を担当し、後藤三右衛門が経済を担当、耀蔵はスパイ活動やおとり捜査などの取締を担当することになった。
外国船の脅威から、守備固めや砲撃のために江戸湾の測量をすることになり、この測量では耀蔵が正使となり、副使は西洋学や砲術に詳しい幕臣・江川英龍(えがわひでたつ)が就任した。
江川英龍は蘭学者の渡辺崋山に測量技術者の推薦を依頼し、高野長英の門人らを推挙した。
渡辺崋山や高野長英らは幕府の鎖国政策と国防の怠惰性などを批判しており、江川英龍を使って幕府に届けようと画策したことを知った耀蔵は、彼ら蘭学者の動向を調べた。
そして天保10年(1830年)無人島に渡航しようと計画していたとして渡辺崋山や高野長英ら8名を捕らえた「蛮社の獄」によって重い処罰を与えたのである。(※耀蔵がでっち上げたことも多数あったという)
妖怪
その当時、江戸の北町奉行には遠山金四郎が、南町奉行には矢部定謙が就任していた。
両者は水野の「天保の改革」の厳しい施策に反対したため、江戸の庶民から人気があった。
そこで耀蔵は、矢部定謙が大坂町奉行だった頃の不正や、お救い米買い付け事件の調査に問題があったとして、矢部定謙を罷免した。
その3か月後、矢部定謙は抗議のために食を絶って死去している。
南町奉行には耀蔵が就任し、矢部と遠山が反対した「株仲間の廃止」を強硬に実施した。
耀蔵の市中取締は非常に厳しく、おとり捜査を常套手段としていたために、人々からは「蝮(マムシ)の耀蔵」あるいは名前の耀蔵をもじって「妖怪」と呼ばれ、江戸市中から忌み嫌われたのである。
そして「天保の改革」に批判的な態度を取り、規制の緩和を図る北町奉行の遠山金四郎を、水野と共に北町奉行から位の高い大目付に転任させた。
栄転に見えるこの人事だが、大目付は大した仕事はなく、事実上の閉職であった。
こうして耀蔵はライバルだった北・南町奉行の2人を追い落とし、天保14年(1843年)には勘定奉行も兼任し、印旛沼開拓にも取り組んだ。
また、洋式軍備の採用を幕府に上申した高島秋帆を快く思わなかった耀蔵は、高島秋帆に密貿易や謀反の罪を着せて逮捕している。
まさに「妖怪」「蝮の耀蔵」、自分の嫌った者には容赦はしなかった。
耀蔵の裏切り
水野は「天保の改革」の後期に「※上知令」の発布を計画した。(※旗本らの領地の一部を取り上げ、それにかわる領地を与える封土転換令)
しかし、これには諸大名や幕閣・旗本に加え、将軍・家慶も猛反発した。
それまで「水野の三羽烏」と言われていた耀蔵だったが、ここでは時流を読んで反対派に寝返り、水野を裏切ってしまったのである。
耀蔵は老中・土井利位に機密資料を残らず横流しをしたため、水野の「天保の改革」は完全に頓挫し、水野は老中辞任に追い込まれてしまったが、耀蔵は従来の地位を保ったのである。
幽閉
それから半年後の弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災によって焼失してしまう。
老中首座になった土井利位は、その再建費用を諸大名からの献金で賄おうとしたが、幕府の献金命令に対して諸大名はほとんど献金をしなかった。
そのことで土井は将軍・家慶の不興を買ってしまい、外交問題の紛糾を理由に水野が再び老中として将軍・家慶から幕政を委ねられたのである。
土井は献金費用の不手際の責任と水野からの報復を恐れ、老中職を自ら辞任した。
老中に復帰した水野は、自分を裏切って「天保の改革」を頓挫させた耀蔵を許さず、職務怠慢と不正を理由に耀蔵を解任する。
翌弘化2年(1845年)2月22日、耀蔵は有罪となり、全財産没収の上で肥後人吉藩主・相良長福に預けられることになったが、4月26日に出羽岩崎藩主・佐竹義純に預け替えとなり、結局は讃岐丸亀藩主・京極高朗に預けられる。
しかし水野も以前のようなやる気を失ったのか、老中を罷免されてしまい、家督を実子・忠精に譲って蟄居隠居となり、水野家は出羽国山形藩に転封されてしまう。
耀蔵が丸亀藩預かりとなった同日、三羽烏の一人だった渋川も、水野と連座して豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、もう一人の後藤は斬首となった。
晩年
丸亀藩での耀蔵には昼夜において監視者が付き、時には私物を持ち去られたり、無視されるようなこともあった。
耀蔵は健康維持のために若い頃に得た漢方の心得を活かし、幽閉された屋敷で薬草の栽培を行ったという。
林家の出身であったために学識が豊富であったことから、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、耀蔵は彼らから崇敬を受けていた。
かつて「妖怪」と呼ばれ嫌われていた時代とは異なり、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていたという。
幕府滅亡前後は監視もかなり緩み、明治政府の恩赦で明治元年(1868年)10月に23年間ぶりに幽閉を解かれた。
しかし耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたから、上様からの赦免の文書が来なければ幽閉は解かれない」と言って動かず、新政府や丸亀藩を困らせたという。
明治6年(1873年)10月3日に死去、享年78歳であった。
おわりに
鳥居耀蔵が失脚後、遠山金四郎は南町奉行に復職し、「遠山=善玉・鳥居=悪玉」という図式が出来上がる。
それから講談・小説・映画・ドラマなどで「遠山の金さん」の素地や悪役としての鳥居耀蔵のイメージが出来上がった。
政敵やそりが合わない者に対する敵意や憎悪は凄まじく、江戸庶民からはかなり嫌われて、南町奉行になる時には
「町々で惜しがる奉行。やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)藏」
という落首が詠まれたというほどであった。
しかし耀蔵は晩年になっても「幕府が滅んだのは私の言うことを聞かなかったためである」と語っており、特に外国人への警戒に関しては、彼なりに強い信念があったようである。
へえ~遠山の金さんにはこんな酷いライバルがいたんだ。
政治の世界は今も昔も変らないんですね!