司馬江漢とは
260余年も続いた江戸時代、戦国乱世の世界から平和な世になると数多くの「天才」と呼ばれる人物が誕生した。
時代の先を走った天才たちの中には「奇人や変人」と呼ばれる人物も多数存在している。
司馬江漢(しばこうかん)は、そんな奇人や変人の一人とされている人物である。
浮世絵師となり、その後中国から伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画を学んで、日本初の「銅版画」を作った。
しかもこの銅版画は「覗き眼鏡」で見るのが前提の作品であり、覗き眼鏡で見るとなんと立体的に見えるという日本初の3D作品でもあった。
好奇心旺盛な江漢は、長崎で日本では誰も描いたことのない油絵に興味を持ち、独自でオリジナルな油絵の具材を作り、浮世絵の画法と西洋の画法をミックスさせた日本初の油絵を完成させる。
絵画だけでは飽き足らずに蘭学者となり、最新の天文学や地理学に通じた彼は「コペルニクスの地動説」や「世界地図」などの西洋の自然科学を日本に紹介した。
晩年には人付き合いが煩わしくなり、生きているのに自身の死亡通知書を知人にばらまいたことで周囲の人たちから奇人と呼ばれたという。
今回は、時代の先を走った奇人&自由人・司馬江漢の波乱万丈な生涯について解説する。
出自
司馬江漢は、延享4年(1747年)江戸の町人の子として町屋で生まれた。
本姓は「安藤」で後に「土田」に改めた。「司馬」という姓は早くから芝新銭座に居住したことに由来し、芝を「司馬」という漢字にしたという。
名は「吉次郎」から「勝三郎または孫太夫」にし、後に名を「峻」、字を「君獄」、号は「江漢」や「春波楼」、晩年には号を「不言、無言、桃言」と称した。
ここでは一般的に知られる「司馬江漢」または「江漢」と記させていただく。
江漢は生まれつき自負心が強く好奇心がとても旺盛で、絵を好み一芸を持って身を立て、後世に名を残そうと考えていた少年であった。
絵師となる
宝暦11年(1761年)15歳の時に父が亡くなると、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信(洞春)に学ぶ。
好奇心旺盛な江漢は次第に狩野派の画法だけでは満足できなくなり、19歳の頃に繊細な表情の美人画で評判だった人気浮世絵師・鈴木晴信の門下に入り、「鈴木春重」という名を与えられて浮世絵版画や錦絵の版下を描いた。
江漢は江戸で評判の天才マルチクリエーター・平賀源内の友人となり、25歳頃に源内の紹介で中国から伝わった南蘋派の絵師で西洋画法にも通じた宋紫石の門下生となる。
宋紫石からは南蘋派(中国の絵画法で写実画)と西洋画法を学び、また源内の紹介で秋田藩の絵師で当代一と言われた「秋田蘭画」の小野田直武から西洋画の遠近法・立体法・陰影法を学んだ。
さらに江漢は、様々な分野に通じていた源内から西洋絵画の他に西洋の自然科学の知識も学んだ。
27歳の時には源内の鉱山探索にも加わり、源内のエレキテル製作にも関わっている。
また、源内の紹介で33歳の時に蘭学者・前野良沢に会って影響を受けて門人となり、大槻玄沢らの蘭学者と接した。
銅版画の制作
37歳の時、大槻玄沢の協力(翻訳)によって蘭語文献を読んで日本初の銅版画(エッチング)を制作し、翌年には自作の銅版画6点とそれを覗く覗き眼鏡(反射式覗き眼鏡)を売り出した。
銅版画は16世紀末にイエズス会によって日本に入って来たが、江戸幕府のキリシタンの弾圧によって断絶していた。
江漢が作った日本初の銅版画「三囲景図」は、覗き眼鏡で見るのが前提となっており、なんと覗き眼鏡で見ると絵が立体的に見えるのである。
日本で初めて進行形でチャレンジしたのがこの人、司馬江漢(1747~1818)。
この「三囲景図(みめぐりけいず)」が日本初のものなんだそうで。#えっちチャレンジ#同伴画#なにか違う#銅版画#エッチング pic.twitter.com/S4LEGV6kiZ— 蒼井野五門 (@a01no5mon) January 14, 2020
まさに日本初の3D作品と言っても過言ではない。
江漢は日本で初めての銅版画を発表する前に、その技法を探るため「獅子のいる風景」という作品を試験的に制作したという。
オランダの画家・レンブラントが完成させた腐食銅版画の技法を、大槻玄沢の協力(翻訳)によって手探りでその技法を完成させたのである。
江漢はこの銅版画に描かれている獅子の本物を見たことがなかったので、源内が私財を投げ打って「ヨンストン動物図請」を買い求め、それを見て獅子を模写したという。
現存する江漢の銅版画「三囲景図」「三囲之景」「博夫親父茶屋図」「獅子のいる風景」は、現在神戸市立博物館に所蔵されている。
神戸市立博物館 獅子のいる異国風景図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365111
油絵を描く
好奇心旺盛な江漢は、42歳の時に一人で長崎へ向かった。
当時の長崎は西洋文化の入口であり、最新知識の宝庫でもあった。
長崎で多くの輸入された油絵を初めて目にした江漢はそれに感化され、今度は「日本では誰も描いたことのない油絵に挑戦しよう」と決意する。
当時、日本一の西洋画家は江漢の師である「秋田蘭画」の小野田直武であった。画法としては西洋の遠近法・立体法・陰影法などの西洋画法を用いていたが、使っている画材は日本の伝統的な絵具と墨であった。
そこで江漢は、自作のオリジナルな油絵の具材を作ることから始めたのである。
まずはカンバスに絹の布を使い、絵の具には荏胡麻(えごま)の油に顔料を混ぜ合わせたものを使用して具材を作り上げた。
これは漆工芸品の彩色法として発達した手法であり,江漢はそれを応用したのである。
こうして江漢は絵師として今まで学んだ浮世絵や西洋の遠近法・陰影法・立体法などをミックスさせた、日本初の油絵を完成させた。
富士山などの日本的な風景の油絵を描き、それを全国各地12の社寺に奉納することによって洋風画の普及に貢献したのである。
代表作「相州鎌倉七里浜図」も神戸市立博物館に所蔵されている。
蘭学者として
寛政4年(1792年)蘭学に通じていた江漢は、世界地図を描いた「地球全図」を刊行する。
寛政8年(1796年)以降にまとめた版画集「ORRERY図」では、太陽の周りを水星・金星・地球・火星・木星・土星が公転する図を載せた。
「コペルニクスの地動説」を自身の著書の中に載せて、西洋の天文学や地理学などを日本に紹介したのである。
死亡通知書を送る
江漢は「和蘭茶臼(おらんだちゃうす)」というコーヒーミルを作り、晩年には人間観・人生観・学問観・社会観など江漢のあらゆる考え方が詰まった「春波楼筆記(しゅんぱろうひっき)」を著した。
「異才・奇人・変人」と言われた江漢の一番のエピソードが、知人たちに送ったこんな手紙だった。
文化10年(1813年)人付き合いが煩わしくなった江漢は知人たちに「江漢先生は老衰し、絵も描かず、蘭学や天文にも飽きてしまい隠棲してしまったが、ついに悟りを開いて死にました」という死亡通知書を送ったのである。
知人たちは突然の悲報に愕然とし悲嘆にくれるが、この死亡通知書(手紙)を送ったのは死んだはずの江漢本人である。
ある日、江漢がどうしてもやむを得ない用事があり外出すると、死亡通知書を送りつけた知人と出くわしてしまう。
肝をつぶした知人を無視して江漢は無言で立ち去ろうとすると、その知人は「ちょっと、江漢先生ですよね?先生!先生!」とその知人はどこまでも追いかけてきた。
たまりかねた江漢は「ええい、死人がしゃべるか!」とその知人を叱り飛ばし、その場を立ち去ったという。
その5年後の文政元年(1818年)、江漢は72歳で本当にこの世を去った。
年齢詐称も
文化5年(1808年)以降、江漢は自分の年齢に9歳加算した年齢を記して世を欺いた。
これは「九」という数字が古代中国の経典「周易」において陽の極地を表し、荘子の言葉に「九年にして大妙なり」とあることから、江漢は「九」に大悟の心境を込めて年齢に加算したと考えられている。
これも常人には理解できない言動であり、江漢が奇人と呼ばれた逸話の一つである。
江漢は平賀源内を始めとして交友関係がとても広かったが、その反面自らを誇る言動が多かった。
蘭学者からは町人出身の出自と絡めて「銅(あかがね)屋の手代こうまんうそ八」と批判・揶揄されることもあった。
晩年に人付き合いが煩わしくなり、生きているのに死亡通知書を送ったのも、こうした人間関係が影響していたとされている。
おわりに
司馬江漢は、日本初の銅版画(エッチング)、日本初の油絵を描く、コペルニクスの地動説を日本に紹介するなど、その功績を見れば同時代を生きた平賀源内と共に天才と評価・称賛されてもおかしくはなかった。
江漢は自由人として生きたために源内以上の奇人とされてしまい、歴史に埋もれた人物といえよう。
この記事へのコメントはありません。