江戸時代

【世界が驚く100万人都市だった江戸】 世界最高水準の識字率だった

前編では、主に庶民目線での江戸時代の暮らしの知恵について解説した。

今回は幕府目線での知恵を紹介する。

人足寄場

江戸には物を修理する技術などを学ぶ「人足寄場(にんそくよせば)」という施設があった。

この施設を作ったのはTV時代劇で有名な「鬼平」こと火付盗賊改方長官の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)である。

平蔵が火付盗賊改方だった頃、天明の大飢饉で東北地方を中心に長い間悪天候や凶作が続き、さらに浅間山が大噴火して農作物は壊滅的なダメージを受けた。
そして飢餓に陥った人々に追い打ちをかけるように疫病が流行し、数十万人という死者が出た。

農民たちは職を求めて江戸に流れて来たが、仕事にありつけずに無宿人となり、江戸の治安は悪化した。

そこで時の老中・松平定信が「何か解決策がないか?」と幕閣たちに問うと、長谷川平蔵だけが手を上げたのである。

平蔵は江戸石川島付近を埋め立てて、生活困窮者や無宿人、軽犯罪を犯した人たちを収容し、更生と仕事の斡旋の手助けをする救民施設「人足寄場」を作った。

そこでは大工仕事や建具製作等、女性には裁縫など手に職をつけさせ、施設を出た後の仕事の斡旋も行った。
今でいう「職業訓練所」を長谷川平蔵は作り上げ、毎年200人以上が新しい職業についたという。

無宿人たちに仕事を学ばせ、社会復帰させるという知恵が使われていたのである。

世界が驚愕

幕末、黒船来航で日本に来たアメリカのペリー提督は、日本人の識字率の高さ・教育の浸透に驚いたという。
日本人の識字率は8割と言われ、読み書きやそろばんができたのは「寺子屋」の存在が大きかった。

【世界が驚く100万人都市だった江戸】

画像 : 寺子屋の筆子と女性教師 publicdomain

 

当時、イギリス・ロンドンの識字率は2割強であったというから、日本(江戸)は世界最高水準の識字率であった。
寺子屋が全国に普及したのは江戸時代中期以降で、幕末には全国に寺子屋は2万軒以上あったという。

寺子屋の先生にあたる人は様々で、武士や商人などの江戸の町人、僧侶や医者などがいた。
授業は「読み書きそろばん」の他に実生活に必要とされる学問の指南が行われ、教科書として「往来物」と呼ばれる書物が使われた。

6歳位で入学し、男子は11歳位で家業の手伝いのために卒業し、女子は13歳位までいたという。
当時の学習方法は1対1のマンツーマン指導であったため、落ちこぼれる生徒がほとんど出なかったという。

江戸時代の子供たちの成長や教育は、地域で育てるシステムが徹底されていたのである。

五人組

江戸時代、庶民の多くは農民だった。

農民たちは村単位の共同体で暮らし、村ごとで年貢を納めることが課せられていた。

年貢納入を滞りなく行うために作られた制度が「五人組」である。

五軒前後の農家が一つの組として、年貢納入の際に連帯責任を負う制度で、どこか一軒の農家が凶作で年貢が納められない時には、他の農家がその負債を返済し助けるという制度である。

相互扶助も徹底し、新田開発や二毛作、品種改良や農機具の買い付けなども行い、農民たちは年貢用の米だけではなく、お金を得るために市場向けの商品作物も作るようになった。
畑は多毛作となり、小さな農家でも多種な作物を育て、より質の良い作物を作るようになっていった。

こうして各地で特徴あるブランド野菜が作られるようになった。その野菜作りに欠かせない物が下肥(しもごえ・人の糞尿)である。
農家たちは江戸の長屋を回って、下肥を野菜やお金と交換して集め肥料とした。
いわゆる汲み取りなどが必要無く、うまくリサイクルできていたのだ。

この当時、イギリスやフランスなどの国では汚物(糞尿)を家から道に投げ捨てていた時代だった。
幕末に日本に来た外国人たちは「江戸の町はゴミが少なく、汚物もない綺麗な町」だと大変驚いたという。

江戸の都市部では糞尿が野菜やお金に替わり、その恩恵で様々な野菜が食べられ、農村部は大都市・江戸という巨大なマーケットがあり、共存共栄の関係にあったと言えるのである。

名君・保科正之

画像 : 保科正之

江戸時代初期、三代将軍・徳川家光の母親違いの弟である保科正之が会津藩主となった。

会津藩は前藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊していた。
そこで保科正之は、領民第一の藩政改革を推し進めていったのである。

正之は「社倉制」という藩の資金で米を買い上げそれを備蓄し、凶作の年に領民に貸し出すという制度を創設した。困窮した農民は2割の利息で米を買うことができた。
返済は次の年だったが、例え返せなくても利息は増えず、その年の年貢の徴収も2~3年待つという寛大な処置が取られた。

藩は「社倉制」の備蓄を毎年増やし、会津藩ではこれ以後、飢饉で1人の餓死者も出なかったという。
また、命を慈しむ保科正之は間引きを許さずに禁止し、旅人が病気になって倒れているとその治療費も出していたという。

90歳以上の老人には身分を問わずに終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給した。

これが日本の年金制度の始まりだとされている。

保科正之は会津藩だけでなく幕閣として慈悲深く、明暦の大火では率先しておかゆの配布を行うなど、まさに「仁」の心を持って接した名君だった。

おわりに

江戸に暮らした人々は、互いを気にかけ、知恵を出し合い、助け合いながら限りある資源を大切にして暮らしていた。

「エコ・リユース・リサイクル」を徹底し、現代人にとっても手本となるような暮らしをし、町も綺麗で世界から驚嘆されたのである。

関連記事 : 【世界が驚いた100万人都市】 江戸の人たちの暮らしの知恵 「超リユース社会だった」

 

 

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