6月16日は、和菓子の日です。
1979年、全国和菓子協会が、明治以降衰退した「嘉祥」(かじょう「嘉定」とも)という行事を復活させるために制定しました。
江戸時代、将軍から家臣へ菓子がふるまわれた「嘉祥」は、三方ヶ原の戦いに由来するという説もあります。
今回は、そんな江戸幕府の儀式「嘉祥」についてご紹介します。
和菓子の歴史
菓子の起源は、木の実や果物と言われています。
縄文時代には、「縄文クッキー」と呼ばれる木の実をすりつぶして焼いたものが存在しました。ただしクッキーと言ってもお菓子ではなく、主食だったようです。
奈良・平安時代になると、唐から「唐果物」(からくだもの)と呼ばれる菓子の製法が伝わりました。
これは米粉や小麦粉などを油で揚げたり、焼いたりしたものを甘葛煎(あまずらせん)で味付けしたもの。甘葛煎は、ツタの樹液をこして煮詰めた甘味料で、当時は大変高価なものでした。『源氏物語』や『枕草子』にも「唐果物」が登場しています。
鎌倉時代には中国に留学した禅宗の僧たちによって、羊羹のもとになった羹類や饅頭が喫茶の風習とともに伝来し、安土桃山時代にはカステラなどの南蛮菓子が宣教師たちによってもたらされます。
南蛮菓子は砂糖や鶏卵を用いて作られており、日本の菓子の歴史に大きな影響を与えることとなりました。
江戸時代に入ると、京都では「京」ブランドが確立され、下りものとして上菓子の「京菓子」が全国各地に広まっていきます。
享保3年(1718)には、最初の菓子製法書『御前菓子秘伝抄』が刊行され、出版文化の隆盛とともに菓子製法書は菓子の発展に大きく貢献しました。
また、江戸の庶民の間では腹持ちのいい大福などの菓子が作られるようになります。
神社仏閣の門前で菓子の販売が始まり、有名な長命寺の桜餅など名物菓子が売り出され、庶民の菓子文化が大きく花開きました。
「嘉祥」とは
「嘉祥」の由来については諸説ありますが、嘉祥元年(848)、仁明天皇が疫病退散のために、ご神託に基づき16種の供え物をしたのが始まりとも言われています。
室町時代には武家・朝廷ともに「嘉祥」を行っており、江戸時代には幕府の重要な行事となりました。
旧暦6月16日、江戸に滞在している御三家を除く大名や旗本は全員江戸城へ登城し、将軍から菓子を賜ります。将軍がお菓子を配るというだけの行事なのですが、規模が半端ではありません。杉の葉を敷いた片木盆にのせられた2万個を超える菓子が、江戸城の500畳の大広間に敷き詰められました。
すべての菓子を登城している全員に将軍が手ずから与えるのはとても無理な話。会津松平氏などの徳川一門や井伊氏のような特別な譜代大名に菓子を与えると、将軍は早々に広間から退出し、大名や旗本は階層や役職ごとに数人ずつ、自分で菓子を取っていきました。
大名たちは屋敷に戻ると、家臣を集めて「嘉祥」の儀式を行います。中には将軍から賜った菓子を国元へ送る大名もいたそうです。なお、全員に手渡しで与えたのは2代将軍秀忠までで、秀忠は2・3日肩が痛かったという逸話が残されています。
菓子は、饅頭588個、羊羹970切れ、鶉焼(うずらやき・餡入りの餅菓子)140個、阿古屋(あこや・丸く伸ばした餅に餡をのせた菓子)2496個、金飩(きんとん)3120個、寄水(よりみず・黄と白のねじったしんこ餅)6240個、平麩(麩の煮しめ)970個、熨斗(のしあわび)4900筋でした。
この大量のお菓子は、江戸の菓子屋が毎年交替で江戸城内の御舂屋(おつきや)と呼ばれる精米や餅をつく施設で作っていました。
「嘉祥」は幕府だけでなく、朝廷でも行われました。公家たちは朝廷から一升六合の米を賜り、その米を虎屋と二口屋という菓子屋で菓子に換えました。
また、江戸庶民の「嘉祥」は、銭十六文で食べ物を買って食すというものでした。
大阪では16種類の餅や菓子を笑わずに食べる風習があり、その他うどんやそうめんを食べる地域もあったようです。
三方ヶ原の戦いと「嘉祥」
「嘉祥」が幕府の重要な行事になった理由は、家康が信玄と戦った三方ヶ原の戦いに関係しています。
戦の前、先勝祈願に訪れた神社で家康は「嘉定通宝」(宋銭)を拾い、「嘉通」が「かつう」、「勝つ」につながると大変喜びました。
その時、家臣の大久保藤五郎が6種類の菓子を献上したのですが、これにも家康はたいそう喜び、家臣一同に菓子が配られました。
このことが、将軍家が大名や旗本に菓子を配る「嘉祥」(「嘉定」)につながったとも言われています。
幕府の菓子御用・大久保主水
三方ヶ原の戦いで菓子を献上した家康の家臣・大久保藤五郎(本名・大久保藤五郎忠行)は、三河一向一揆で負傷し歩行困難となり、戦役を免除され領地で過ごしていましたが、菓子作りが得意で折に触れ自ら作った菓子を家康に献上していました。
天正18年(1590)、家康の関東移封のとき、藤五郎も江戸に移ります。家康は藤五郎に上水道の見立てを命じ、藤五郎は神田上水の元になる小石川上水を整備しました。
この功績により藤五郎は家康から「主水」の名前を与えられ、「主水」は水が濁らないようにという意味を込めて「もんと」と呼ばれました。
主水の子孫は代々「大久保主水」を世襲し、江戸幕府御用達の菓子司となりました。
大久保主水は、輸入砂糖の管理や江戸市中の菓子屋の統制など幕府の重要な仕事を担っており、御用菓子屋の筆頭として将軍家に重きを置いていました。そのため屋号は名乗らず、店売りもしませんでした。幕府がなくなった明治維新後は、菓子屋を廃業しています。
徳川将軍家の産土神である赤坂日枝神社では、現在でも山王祭の期間中6月16日に「山王嘉祥祭」の神事が行われています。また、和菓子の日限定で「嘉祥菓子」や「嘉祥饅頭」などを販売している老舗の和菓子店などもあるようです。
「嘉祥」には、厄除けや健康招福の意味も込められていました。6月16日に和菓子を味わい、厄除けをしてみてはいかがでしょうか。
参考文献:青木直己『和菓子の今昔』
嘉祥元年(848)は「仁徳天皇」ではなく、「仁明天皇」です。
修正させていただきました!ありがとうございます!