1.はじめに
この楽器は「平家琵琶」という。
文字通り「平家物語」を語るためにだけ存在する「平家物語専用の楽器」である。
この楽器「平家琵琶」の伴奏による「平家物語」の語りを「平曲」と言う。
近代になってから行われている「薩摩琵琶」や「筑前琵琶」などの奏者が「平家物語」の一部をとりあげているものや、「平家物語」を元ネタとして独自の楽曲にしているものを決して「平曲」とは言わないので注意されたい。
「平家物語」は古来、琵琶法師による平曲として嗜まれて来たと言われる。
古式に則った、伝統的な平曲を演奏する琵琶法師は21世紀の今でも、存在しているのであろうか。
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2.「平家物語」の成立について
まずは「平家物語」の成立と琵琶法師の関係について確認しておこう。
「徒然草」の第二百二十六段に「行長入道、平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」とあり、もともと「平家物語」は、盲目の琵琶法師の語りと密接なつながりがあったことが知られている。
「平家物語」の成立については、諸説あるが、深入りはしない。
ここでは明治43年、館山漸之進(たてやまぜんのしん)によって書かれた「平家音楽史」に示された館山氏の見解を紹介するに留めておく。
大意を述べると、
信濃前司行長は、「一生の天職」と決意して、座主慈鎮(慈円)を頼って比叡山に入り、慈円に師事し、歴史書たる「平家物語」を作り、国民の新音楽としての「平家」を創設し、生仏という者に委ねた
ということになる。
「国民文学としての平家物語」という意識が、過去に照射されている事例としても興味深い記述であるので、ここに引用した。
3.明石覚一による「覚一本」
「平家物語」には、様々な異本(バージョン違い)がある。中でも「延慶本」と呼ばれるものは諸本の中で最も古体を残しているとされ、学術研究の世界では、これまで重要視されて来た本である。
だが多くの一般の日本人が教科書などで目にする「平家物語」は「覚一本」と呼ばれる本である。
その「覚一本」を作ったとされるのが、明石覚一。南北朝時代の琵琶法師である。
「太平記」巻二十一には、この覚一が、足利尊氏の側近だった病中の高 師直(こうの もろなお)のつれづれ(変化のない環境で感ずる退屈)を慰めるために、真一という琵琶法師を伴って「平家」を語ったことが記されている。
その頃、師直ちと違例の事有りて、しばらく出仕をもせで居たりける間、重恩の家人ども、是を慰めん為に、毎日酒・肴をととのへて、道々の能者どもを召し集めて、その芸能を尽させて、座中の興をぞ催しける。ある時、月ふけ夜静まって、荻の葉を渡る風身に入たる心地しける折節、真一と覚一検校と、二人つれ平家を歌ひけるに、(中略)、真一三重の甲を上ぐれば、覚一初重の乙に収めて、歌ひすましたりければ、師直も枕をおしのけ、耳をそばだて聞くに、簾中・庭上もろともに、声を上げてぞ感じける。
実はこの覚一が師匠から受け継いできた語りを口述筆記させてテキスト化したものが「覚一本」なのである。
現代の我々は、琵琶法師の残した「歌詞カード」を、そのまま教科書として古文を学んでいるようなものだ。
ここでもまた「平家物語」と琵琶法師の密接なつながりを再認識させられる。
なおこの明石覚一は足利尊氏のいとこであったという説も残されている。
「平家物語」を語る琵琶法師は、世間のイメージと違って、意外にも権力者の近くにいた存在なのである。
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