f 藤原道綱母の蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ」? - 草の実堂

平安時代

藤原道綱母の蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ」?

なぜ、名前がないのか?

蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ?」

(平安時代の女性たち。年頃になると、御簾の中で生活をし、身内以外の男性の前に出ることはなかった)

藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)とその名を聞いたときに違和感を感じる人は多いかもしれない。

その名の通り、『藤原道綱』という人の母親だからこのように呼ばれているのであろうが、どうして本人の名前を呼ばないのだろうか?
(なお、藤原道綱母は、右大将道綱母と称されることもあるが、ここでは統一して藤原道綱母と記したいと思う)

藤原道綱母の夫である藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、後に摂政にまで登り詰めたことからもわかるように、由緒正しき藤原家の生まれである。道綱母とは違う女性との間に生まれた息子は、栄華をきわめたあの藤原道長である。

一方、道綱母の父は身分の低い国司(地方の役人)であり、二人の結婚は身分違いの玉の輿婚であった。

当時の女性は、帝の親類や妻などでない限り、公の場では名前を明かさないことになっていた。戸籍の中にも名前は残らず、ただ、『』としてのみ記入されるのである。
道綱母も身分が高いわけではなかったため、名前が残っていなかったようだ。

蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ?」

蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ?」

(藤原兼家)

藤原家は当時、名家中の名家であり、その系譜は大化の改新で活躍した藤原鎌足(中臣鎌足)から始まる。
鎌足は大化の改新での功績を讃えられ、藤原の姓を手に入れたのである。

そんな名家に生まれ育った藤原兼家は、豪胆で気さくな人物として評判が高かったが、同時に名うてのプレイボーイとしても有名であった。
そんな兼家が気に入り、妻へと強く望んだのが、身分は低いが絶世の美女として評判になっていた道綱母だったのである。

まさに“玉の輿”であるその縁談に、道綱母の一族は多いに喜び、結婚の話はどんどん進展していく。

すでに兼家には正妻が居たことを知っていた道綱母は、女好きで評判の未来の夫に疑念を抱きつつも求婚を了承するのであるが、彼女の抱いた疑念通り、結婚後に兼家は他の女性とどんどん浮名を流していく。

平安時代、婚姻生活は“通い婚”として成り立っていた。
夫が妻のいる屋敷を訪ねていき、そこで滞在する、というものである。

一夫多妻制だったので、夫は複数の妻や愛人の屋敷をかわるがわる訪ねていき、妻は夫が訪ねてくるのをただ待つしかない、という状態であった。
仲が良好な妻のところへは長く滞在し、関係がうまくいっていないところへは足が遠のく…そんな平安時代の結婚生活の様子が、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の中で詳しく描かれている。

蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ?」

※蜻蛉日記(岳亭春信画)

蜻蛉日記』の題名の由来は、『かげろうのように儚い身の上を日記にしたもの』というものであるが、このことからも、当時の女性たちは婚姻生活の中では非常に弱い立場であったことがわかるだろう。

『蜻蛉日記』の中で、道綱母は、兼家に対する自分の想いを赤裸々に綴っている。

道綱母よりも早く妻になった、正妻の時姫と張り合ったというエピソードや、兼家の愛人に嫌がらせをした話、浮気してきた兼家を家に上げなかったりといったことなど、それらのエピソードを日記として書く、ということで、彼女は精一杯の反抗をしてみせている。

まるで、「私たち女性にも権利はあるんだ!」と社会に抵抗しているように思えて、なかなか好感が持てる。

『蜻蛉日記』は多くの女性の共感を呼び、瞬く間に貴族たちの間で評判になった。あの『源氏物語』にも影響を与えたと言う。
『蜻蛉日記』は日本最古の女流日記であり、また、いつの世も変わらない“女性の生きづらさ”を描いたことで、現代でも共感する女性は多いことだろう。

まさに現代で言うところの、『夫への愚痴ブログ』と言えるかもしれない。

百人一首にも選出される和歌の名手

蜻蛉日記は平安時代版「夫の愚痴ブログ?」

百人一首より(藤原道綱母は、右大将道綱母とも呼ばれている)

道綱母は、美人として評判だっただけでなく、和歌の名手としても有名であった。

『蜻蛉日記』の中に記されている一首、

なげきつつひとり寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る
(現代語訳:あなたが来てくれないことを嘆きながら、一人で眠る夜がそれほど長く感じられるか、あなたはご存じでしょうか。ご存じないでしょうね)

百人一首にも選出されている。

息子の道綱が生まれたばかりにも関わらず、もう愛人の元へ通い始めた兼家が訪ねてきたときに、盛りの過ぎた菊と一緒にこの歌を送ったと言われている。

浮気をされたことによる悲しみを、盛りを過ぎて枯れかけている菊の花を添えて伝えるというところが、道綱母の感性の雅さを表していると言えるだろう。

最後に

その美貌から“本朝三大美女”とまで言われ、さらには女流日記の先駆けとも称されるほどの文学的才能に恵まれながらも、道綱母の生涯は不遇で寂しいものであったと言われている。

晩年は、摂政となった兼家にほとんど顧みられることもなく、寂しい生活を送ったとされているが、『蜻蛉日記』は道綱母の没する20年前、彼女が39歳のときに筆が途絶えている。

夫・兼家のことを心から愛した道綱母だったが、自分自身のプライドが邪魔をして素直になれず、夫婦はすれ違ったままだった。

『蜻蛉日記』を読むと、世間体と愛情の間で悩みながらも、ただひたすらに夫の愛を求めていた彼女の苦悩や悲しみが、時代を超えて私たちにせまってくる。
道綱母は夫婦の愛と引き換えに、素晴らしい文学作品をこの世に遺したのではないだろうか。

(藤原道綱母が記した『蜻蛉日記』は、現代でも多くの人に読み継がれている)

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