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清少納言と紫式部は、仲が悪かったというのは本当なのか?

清少納言と紫式部

枕草子」を書いた清少納言と、「源氏物語」を書いた紫式部は、お互い仲が悪かったという話をどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、それは本当でしょうか。調べてみました。

清少納言と紫式部 の仕えた相手

清少納言と紫式部。二人はともに下級貴族の娘として生まれ、天皇のお后に仕えました。

清少納言が仕えたのは、藤原道隆の娘である定子。紫式部が仕えたのは、藤原道長の娘である彰子です。

定子も彰子も、ともに一条天皇のお后でした。図にするとこうなります。

清少納言と紫式部

ちなみに道隆と道長は兄弟ですが、道隆家と道長家は権力争いという意味ではライバル関係です。

確かに、こう見ると、権力を争う家の娘に仕える女性同士、互いにライバル心を持っていてもおかしくないように見えます。

 

作風の違い

清少納言の書いた「枕草子」は、中宮定子の周りに仕えた女房たちによって共有されていたセンスを伝えてくれるものです。

日々の話題や、使っていた言葉、ちょっとした受け答え、自然や風物、人々のあり方への洞察などが書き集められていますが、その価値観を代表する言葉は「をかし」です。

一方、紫式部の書いた「源氏物語」については「もののあはれ」を表現した文学だと言われます。

江戸時代の学者である本居宣長は「源氏物語玉の小櫛」の中で、

「物語はもののあはれを知るをむねとして(物語はもののあはれを理解することが主旨であり)」

と述べた上で、

「もののあはれを書き述べて、源氏の君をば、むねとよき人の本として(もののあはれ深さを繰り返し書き述べて、光源氏を、専らよい人の手本として)」

と述べて、源氏物語の主人公である光源氏を「もののあはれ」を体現する人物として描いているとします。

「をかし」はものを客観的に理知的に賞美する感じ。イイネ!という明るいイメージの言葉です。

「あはれ」はしみじみとした感動を示す言葉で、ジワーっとしたイメージの言葉です。

清少納言と紫式部は互いに「文章で表現したかったこと」においても対立するように見えますね。

性格の違い

では、二人は互いにどんな性格の持ち主だったのでしょうか。

清少納言については「枕草子」の中にこんな記事があります。

大進生昌という人に家に中宮定子たちが赴いた際の「生昌の家の門が狭くて、大変に通りにくかったこと」
についての会話です。

(清少納言)「などその門はた、せばくは作りて住み給ひける。」(どうしてその門をまた、狭く作って住みなさっているの?)

(生昌)「家の程、身の程にあはせて侍るなり。」(家柄や身分に合わせてのことです。)

(清少納言)「されど門のかぎりを高う作りたる人もありけるは」(でも、門だけを高く作っている人もいるわよ。)

(生昌)「それは于定国が事にこそ侍るなれ。」(それは于定国の故事ですね!)

「于定国が事」というのは「漢書」などにある話で、要するに清少納言はここで「漢文の知識を披露して男性貴族を驚かせている」わけです。

当時漢文は男性貴族の教養で、女性が漢文に通じているのはすごいことでした。

「知識や教養、機知に富んだ受け答えを披露して、相手を驚かせてしまうワタシ」について語ったエピソードが「枕草子」には、たくさんあります。

どうも清少納言からは「気がつくと自慢話を始めてしまうキラキラ女子」の性格が伺えます。

さらに「たくましく貴族社会で生き抜くバリキャリ系女子」のイメージも重なります。

では、一方紫式部はどうでしょう。

紫式部の日記である「紫式部日記」にはこんな記事があります。

「誇りかにきらきらしく、心地よげに見ゆる人あり。」(誇らしくキラキラしていて、気分良さそうに見える人がいる。)

「『われは』と思へる人の前にては、うるさければ、もの言ふことももの憂く侍り。」(「我こそは」と思っている人の前では、うっとうしくて、しゃべるのもダルいです。)

ああいうキラキラして我の強い人たちに比べて、私は人の中に混ざって働くのは向いてない」と苦悩を述べている部分です。

これは直接清少納言を名指ししているわけではないのですが、少なくとも、紫式部の内向的な性格が見えます。

性格という点でも、二人はどうも相容れなさそうですね。

 

「紫式部日記」の清少納言批判記事

そんな「紫式部日記」の中には、はっきりと清少納言を批判した記事があります。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。」(清少納言は、得意顔がはなはだしい人。あれほどかしこぶって、漢字を書き散らしているけど、よく見ると、まだまだ足りないとことが多い。)

うわ。言ってしまいましたね、紫さん!

実は紫式部の父は、漢文によく通じていた藤原為時という人です。

そして紫式部自身も、兄弟が漢文を習っているのを横で聞いているうちに、自分の方が先に習得してしまったために、父は「この子が男だったら」と嘆いた、というくらいの漢学通なのです。

上に書いた于定国のエピソードのように、清少納言が漢文の知識をひけらかしていることに思わず紫式部が反応する気持ちはわかります。

置かれた立場や、センスや性格など、ぶつかってもおかしくない二人は、やはり仲が悪かったのでしょうか。

ところが、あの勝ち気そうな清少納言の方は、紫式部から浴びせられた自己への批判について答えてはいません。

意外です。これはいったいどういうことでしょうか?

まとめ

さて、ここまで引っぱっておいて申し訳ないのですが、「清少納言と紫式部は仲が悪かった」という表現はやはり不正確なのです。

それは二人の年齢差や活躍した時期ということを考えることで明らかになります。

清少納言の生まれについては964年〜971年の間でいくつか説があり、紫式部の生まれについては970年〜978年の間でいくつか説があります。

以上を踏まえて、大体、清少納言の方が紫式部よりも4歳から12歳ほど年上だったとされます。

清少納言が初めて定子に仕えたのが993年です。定子が亡くなったのが1000年ですので、清少納言が活躍した時期はこの間と考えられます。一方、紫式部が彰子に仕え始めたのが1006年です。

つまり、二人は決して、「直接に職場で顔を合わせて、日々すれ違っていた」というわけではないのです。

「紫式部日記の清少納言批判記事」が書かれたのは、清少納言が中宮定子サロンでの活躍の日々を終えてからずっと後のことと考えられます。

清少納言にとっては反論のしようもないわけです。

 

紫式部にとっての清少納言は「自分の仕える家のライバル家」の「かつての花形スター」という位置にあったわけです。

紫式部の清少納言批判の動機はそんな「家 VS 家」「旧時代 VS 新時代」という所にあったのかもしれませんが、実はこんな事実もあります。

「枕草子」には、清少納言が直接紫式部についてコメントした文章はもちろん残っていないのですが、「紫式部の夫であった藤原宣孝についての記事」が、「あはれなるもの孝ある人の子」で始まる章段にあるのです。

右衛門佐宣孝といひたる人は「あぢきなきことなり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。かならず、よも『あやしうて詣でよ』と御嶽さらにのたまはじ」とて、三月つごもりに、紫のいと濃き指貫、白き襖、山吹のいみじうおどろおどろしきなど着て、

これによると後に紫式部の夫となる藤原宣孝が御嶽詣でに、派手な服装で現れて、「御嶽の蔵王権現は『質素な服装で来い』とは全くおっしゃらないだろう」と述べて、

帰る人も今詣づるも、めづしうあやしき事に「すべて昔よりこの山にかかる姿の人見えざりつ」とあさましがりしを、

と人々から驚き呆れられたものの、そのお参りの甲斐あってか、越前の守になったという話を載せています。

 

そして清少納言は、この藤原宣孝の行為について「あはれなることにはあらねど」と述べて「“あはれ”ではない」というコメントをしています。

もちろん、この文章を書いた清少納言は、後に藤原宣孝と紫式部が結婚することを知りませんので、清少納言に紫式部批判の意図はありません。

ですが、もしこれを後に紫式部が見ていたらどうでしょう。自分の亡くなった夫の行為について「あはれではない」としている文章です。

「もののあはれ」を探求していると言われる「源氏物語」の作者にとって、これはもしかして、カチンとくる表現だった可能性もあります。

そういえば「紫式部日記」の清少納言批判の次に続く記事は、自分の人生の反省の記事です。

実はそこには「亡き夫が大切の所蔵していた漢籍のこと」
についても書かれています。

そして、またその後につづくのが、先程紹介した「キラキラ系批判の記事
なのです。

「いったいどんな気持ちで紫式部はこの日記を書いていたんだろう。」

この記事を書くにあたって、「紫式部日記」を読み返して改めて思ってしまいました。

 

終わりに

古典を読む」ことで、本来ならば、決して出会えるはずのない、清少納言や紫式部の声を聞くことができます。

それは完全な形の声ではないかもしれませんが、時代を越えて残り続けて来たという意味で「本物の声
であることは間違いありません。

私、武蔵大納言は、現代の皆様に、そんな古典の面白さを伝えるために、時空を越えて、この時代にやってきたのかもしれません。

是非、皆様も「枕草子」「源氏物語」「紫式部日記」などを、webの記事だけでなく、書籍の形でお読みになってみてください。

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生まれは平安時代。時空の割れ目に紛れ込んでしまったことにより、平成の世に紛れ込む。塾や予備校で古文漢文を教えながら、現代日本語を習得。現在は塾・予備校での指導の傍ら、古典文学や歴史についてのライターとしても活動している。
Twitterアカウント @musasidainagon
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