2.渡辺達郎氏の研究
さて、何ともひどい書かれぶりの平宗盛であるが、逆にこれほどまでにひどい書かれ方になると「これは何らかの陰謀ではないか」とすら思えてくる。
物語が作られて、まとめられていく段階では何らかの「構想」が作用する。
「平家物語」中の宗盛は明らかに、意図的に「平家の疫病神的ポジション」を担わされているように思われる。
ここで見るべきは「平家物語」以外の資料なのではないか。
事実、平宗盛の人物像を探り直そうとする研究は少しずつであるが進んでいる。
「寿永元暦の合戦と英雄像」(渡辺達郎)は、
「たとえば、宗盛が否定的評価の多い人物なら、そのような人を一門の棟梁に据えるという理由について、詳しい説明がなされてもよいであろう。」
と述べる。
渡辺氏は、「一の谷合戦で捕虜となった平重衡と、三種の神器を交換する」
という交渉の際に記された、平宗盛の「返状」を分析する。
実はこの返状は「平家物語」中で、宗盛が平家の棟梁としての気概を強く表現する数少ない場面なのである。
大変な長文なのでここにそれを引用することはしないが、その大意は
「三種の神器は返さない! むしろ後白河法皇こそこっちへ来てくださいよ。さもなければ平家はインド中国にまで進出してやるぞ!」
というものであり、平宗盛の名で書かれた「気合い充分の文章」となっていて、臆病な愚将のイメージとは遠い。
だが、同じ返状でありながらも、「吾妻鏡」所収のものでは、その内容に相違がある。
そしてこの「吾妻鏡」所収の平宗盛「返状」こそが史実とされ、従来の研究では、この書状は平家の「戦意喪失」を表現したものとされていた。
つまり「史実としての宗盛は弱気であったが、平家物語の返状では、強気の宗盛が虚構として描かれている」というのが従来の研究の立場だったのだ。
だが渡辺氏は「吾妻鏡」所収の平宗盛「返状」を詳細に読み解き、
「現在の不当な待遇の責任を追及し、自分たちの要求さえ示した書状といってよい。これを出した宗盛の気概は、相応に感得されるべきものといえよう」
と、述べて、従来の研究に異論を唱える。
この渡辺氏の手法が成功しているかどうかは、読者諸君の判断に委ねるとしても、「“平家物語中のひとりのキャラクターである宗盛”のイメージで、史料をも解釈してしまう」という傾向に、果敢に挑んだ研究であることは間違いない。
渡辺氏は同書の中で、
「彼は文官気質が強く、軍事的才能に恵まれた人物ではなかった。それでも武家の棟梁にならざるを得なかったのが、彼と平氏の不幸だろう」と述べる一方、「少なくとも第一級の為政者としての自覚は持っていたと認識してよい」
と述べている。
そう、確かに宗盛は将軍としては「愚」であったかもしれない。だが優れた政治家であった可能性はある。
軍事的な部分での失敗だけをもって、宗盛を「人間的にも完全に終わった人物」などと見るのは間違いなのではないか。
3.田中大喜氏の研究
田中大喜氏も平宗盛のイメージの再考を試みている。
「中世の人物 京・鎌倉の時代編 治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立」に収録された「平宗盛-悲運の武家の棟梁」において田中氏は、宗盛の母時子、そして時子の妹であり後白河院の寵妃であった建春門院滋子との、強い絆に着目する。
「後白河院政の中で運営の一翼を担っていた建春門院との密接な関係が、宗盛の官位昇進に有利に作用したことは間違いないだろう」
として、その順調な官位昇進ぶりを解析している。
そして仁安三年(1168年)に即位した高倉天皇の取り次ぎ役であった若狭の局という女房が、建春門院の乳母であったことから宗盛と結びついていたことに着目し、
「宗盛は、若狭局を介して清盛の意志を高倉に伝達することができ、その存在がクローズアップされた」
と述べている。
また後白河の院政停止の後、高倉天皇の意志決定の組織であった「内議」が
「宗盛によって統轄されていた」
としている。
その後、清盛が亡くなって後白河院政が復活すると
「持ち回り会議という公的な国会意志決定システムに参加して国政に携わった」
としている。
またこの頃、宗盛は惣官職(そうかんしき)に補任され、
「畿内と周辺諸国の国衙機構を掌握し、兵士役の賦課や兵糧米の徴収などの高次の軍事指揮官のポストに就いた」
とも述べている。
以上の田中大喜氏の指摘からもわかるように、この時代の宗盛に無能な印象は全くない。
むしろ国家の中心でバリバリ働く政治家の顔が伺えるのだ。
ところが、宗盛のこういった面は「平家物語」ではほとんど描かれないのである。
平家都落ちの後の悲惨でみじめな姿ばかりに焦点が当たってしまい、その印象がさらに宗盛の功績を包み隠す。
そういった意味で宗盛はまさに悲運の人であったといえる。
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