若くして武士の身から出家した 西行
武士が台頭し始めてきた平安時代末期。
後に一大勢力を築き上げる平氏が着々と勢力を広げていく中、武士を辞めて僧侶になった者がいた。
名前は西行(さいぎょう)。桜にちなんだ和歌で有名な人物である。武士である身分を捨ててしまった西行は、一体どのような理由で僧侶として第二の人生を歩むことを決めたのだろうか。
今回は謎多き僧侶、西行について書き連ねていきたいと思う。
エリート中のエリートだった
西行は元永元年(1118)に産まれた。
西行は出家する前は佐藤義清(さとうのりきよ)という名前の武士であった。その家系は古く、藤原秀郷が興した秀郷流武家の出自で秀郷の子孫ということになる。武家の中で名門であったため西行は保延3年(1137)、20歳の若さで北面の武士の一員に任命されている。
北面の武士とは上皇の身辺を警備した武士たちのことであり、同僚には平清盛がいた。
西行は流鏑馬の達人で和歌にも精通し、それに加えて容姿端麗と非の打ち所がないほど完璧だった。順風満帆な人生を送っていた西行だったが、保延6年(1140)に突如として出家を敢行したのである。
出家の動機には諸説あり、「友人の死」や「失恋」がある。いずれにしても西行が出家したのは事実である。
出家の際に妻子に別れの挨拶した際、別れを惜しむ娘が寄ってきたが西行は娘を縁側に蹴り落とし、家族と家を捨てたとの話が残っているくらい西行の覚悟は揺るぎなかった。
出家した後
西行は出家すると京都周辺を歩き回った。西行は行った場所は嵯峨や鞍馬山、奈良の吉野である。
出家した直後は家族のことが気がかりで仕方がなかったようである。この思いを和歌にしたため、世を断ち切れない煩悩を捨て去ろうと努力していた。
天養元年(1144)には奥州へ渡り、和歌の名所を訪ねて回った。奥州には奥州藤原氏が本拠を構えているので、西行にとっては同族に会えたことが感慨深かっただろうと思われる。奥州を後にし、西行は久安4年(1149)には高野山(現在の和歌山県)に戻っている。
全国巡りの旅へ
高野山に戻った西行はそこで約30年過ごした。治承元年(1187)になると伊勢国にある二見浦に拠点を移す。
文治2年(1186)には東大寺再建の寄付を奥州藤原氏へ求めに再度奥州へ行くことを決意した。この道中では鎌倉へ寄り源頼朝に出会ったと『吾妻鏡』では記されている。西行は頼朝と武道や歌道の話をしたとされている。元は名門の武家の出であり、北面の武士であった西行から直々に話を聞くことができたのは、頼朝にとっても良い体験になったのではないかと思われる。
奥州から戻った西行は伊勢国に数年滞在し、後に弘川寺(大阪にある寺)に移り建久元年(1190)にひっそりと息を引き取った。
西行は生前に
「願わくは花のしたにて春死なんその如月の望月のころ」
(願うことは桜の花の下で春に死にたいということだ。釈迦が2月15日に入滅した2月の満月の頃。)
という歌を残しており、春に死を迎えることを望んでいた。
驚くことに西行が亡くなった日は2月16日ということで釈迦入滅の日ではなかったが、桜が開花している2月に亡くなることができ願いを叶えられ満足していただろうと想像できる。ちなみに2月は新暦では3月であり、この時期には桜が満開だった。
最後に
エリート街道を歩むと期待されていたが、唐突に出家してしまった西行。
思い立ったが吉日という言葉がある通り西行の行動力は尊敬に値するものがある。しかし、その理由は失恋や友人の死などでそんな理由で出家していいものかとも思ってしまう。何か別の理由があったのかも知れないが、実のところこの2つが有力視されており、出家の理由がはっきりしていないのは事実である。
残された家族は弟に任せているが、時折娘の様子は見に行っていたようである。出家して世俗と関係を断ち切るよう努力をしていても、愛する家族には会いたくなってしまうのはどうしようもないことである。
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