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千日回峰行の過酷さと歴代満行者について調べてみた【比叡山延暦寺】

比叡山延暦寺【命がけの千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)】

千日回峰行の過酷さと歴代満行者について調べてみた【比叡山延暦寺】

※延暦寺 根本中堂 (国宝)1642年再建。wikiより

京都の東側に連なる東山三十六峰。その中でも一番北に位置する比叡山は、標高848mの高さをもち、京の都の鬼門にあたりました。

この山にある延暦寺では今でも命がけの荒行、「千日回峰行」が引き継がれています。

行者の衣装

千日回峰行の過酷さと歴代満行者について調べてみた【比叡山延暦寺】

※行者の服装(1954年7月発行の国際文化情報社「国際文化画報」より)

それはまさに、死装束

千日回峰行を行う行者の衣装は、頭には未開の蓮華の葉の形をした桧笠(400日こえると蓮華笠)、白装束(麻生地の浄衣と切袴)、草鞋(300日までは素足に草鞋、超えると足袋をはき草鞋)。

草鞋は墓石の蓮華台を表しています。そして腰には死出紐(しでひも)と降魔の剣

この荒行を行う者はそれだけの覚悟がいるといった証です。

もし途中で挫折すれば、その理由が怪我であろうが病気であろうが、親の死であろうが関係ありません。満行できなければ、それは死を意味しました。
腰にまいた死出紐は首を吊るため、は喉か腹を突いて自害するためのものなのです。

持ち物

550日を超えると白帯袈裟と御杖(おつえ)が使えるようになり、「白帯行者」や「げこまん」などと呼ばれるようになります。

雨が降ったとしても雨具は「着茣蓙(きござ)」ど呼ぶ「ござ」で肩を覆うだけ、それ以外はありません。しかも、どんな荒れた天気であれ止めることも出来ないのです。

もし、自分が行の半ばで命を落としてしまったとき面倒をみてくれる人への葬式代にと、今では10万円を経袋に入れて持ち歩くと言われています。同じ意味で三途の川を渡る六文銭も蓮華笠に入れ持っているのです。

どれだけの覚悟を持ってこの荒行に挑むのか、一目見ただけでも伝わる死との隣り合わせ、少し恐ろしさを感じてしまいました。

自己との闘い、止めることはできない

千日回峰行の過酷さと歴代満行者について調べてみた【比叡山延暦寺】

※千日回峰行の祖、相応和尚像(無動寺)wikiより

この修行は、比叡山延暦寺で古くから行われている荒行です。平安時代に延暦寺の相應和尚が形つくられ、相實が完成させました。

相應和尚が延暦寺の根本中堂の花へ6~7年の間、かかさず水をお供えしたことに由来しています。

7年間に渡る修行で、1000日の間、比叡山や京都の町を歩き、そのトータルは距離にして約4万km、地球を1周する距離にあたるといわれるほど。

しかし千日とは言いますが、実際に歩くのは975日です。残りの25日は「生涯をかけて行を続ける」といった意味があります。

法華経のなかにある、常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神(あらゆるものに仏性があるという教え)を具現化したものが千日回峰行で、比叡山の山を歩き、全てのものに礼拝して回るのです。

誰でも挑める修行ではない

この荒行は、決して誰もができるものではありません。

比叡山での百日回峰行を終えた者が、自ら発願して師僧に許可をもらい、次に比叡山への願書を書きます。これを提出して許可をもらえれば、千日回峰行に挑めるのです。

無理に押し付けられた修行でもなく、また誰もが挑戦できるものでもない、自分との闘いでもあります。もしかすると命を落とす可能性もあると分かっていながらも、この荒行に挑まれる覚悟はどこから生じるのか、並大抵の精神ではとても考えられないことです。

この期間およそ7年間とは言いますが、細かに刻まれた修行内容をご紹介していきます。

1~3年目まで

午前12時過ぎから勤行を済ませたら、無動寺を午前2時頃より出発し、1日30kmの行程で1年のうち100日間を歩きます。この時間帯は周りはまだ暗黒です。
途中には「餓鬼地獄」と呼ばれる危険な場所や、玉体杉(ぎょくたいすぎ)など、途中にある260箇所以上の場所で立ち止まり、礼拝を行うのです。

ちなみにこの260箇所は、前回の大行満阿闍梨から、たった一度だけ口頭で伝えられます。覚えるだけでも大変そうです…

およそ6時間かけて歩く30kmとされる距離は、ぴったりと計っているわけではありません。これ以上歩いている日もあるでしょう。

何故30km、七里半?それには意味がありました。大乗仏教での悟りの境地とは「」といわれており、その一歩手前となる距離を歩き修行をするという意味があるからだとか。

その姿は軽い足取りで、まるで走っているようにも見えると言われています。白い装束を着た行者が、一定の速度で峰を駆け巡る白鷺のように見える姿から「峰の白鷺」とも呼ばれているのです。

4、5年目

4年目に入ると、ここからは1日30kmを 1年のうち200日間歩きます。

301日目からは、蓮華笠を被る事ができ(それまでは蓮華笠は仏様とされ手に持っている)、足袋も履けるようになるのです。ここまでの修行で、合計700日を歩いた計算になります。

1年のうち100日間を歩くなら3月下旬から歩き始めても7月には終わりますが、200日歩くとなると、終わりが10月頃になります。まだ寒い雪の日もあるでしょう、夏にはうだるような暑さの中をただひたすら耐えて歩くのです。

その時生きていられるだけでも、とても不思議に思えるほどの体験をされ、それでもまだ修行に戻り続けようとするその精神力。死を覚悟しているからこそなのでしょうか。

このあとには、千日回峰行で最も厳しく過酷な修行である『堂入り』が待ち構えているのです。

最も過酷な『堂入り』

堂入り』とは、比叡山の無動寺谷明王堂に9日間籠る修行をさします。

何が過酷なのかといえば、この期間は『断食(食べず)・断水(のまず)・不眠(眠らず)・不臥(横たわらず)』の4無行を行い、ひたすらと10万回不動明王信言を唱え続けるのです。
これは、お釈迦様が菩提樹の下で一週間瞑想して悟りを開いたことに由来されています。

この9日間は、毎晩深夜2時になると閼迦井で閼迦水を汲み、不動明王に供えるのですが、これ以外は堂から外には出れず、小用以外は座ることも許されません。

普通なら3日は持たないと言われるようなことを、見事に満行することができれば、『当行満阿闍梨(あじゃり)』となり、生身の不動明王となるのです。

万が一に備え、堂入りする前には親や家族を呼び、生き葬式を行うほど厳しい修行であります。

6年目

6年目に入ると、今までの行程にプラスして、比叡山から雲母坂を下り赤山禅院まで行き、また比叡山へ帰るといった『赤山苦行』が始まります。

1日60kmにおよぶ距離を100日間歩き続けるのです。回峰行を行っている行者でも14~15時間はかかる距離。

7年目

続いて7年目には200日。歩く距離はさらに増え1日84kmです。堂入りか京都大廻りかと言われるほど、この修行も大変な距離を歩きます。

前半の100日と後半の100日は内容が違い、前半では『京都大廻り』と呼ばれ、比叡山~赤山禅院、そこからさらに京都市内をまわり比叡山へと帰るコースです。

京都大廻りは、午前1時に比叡山を出発すると日吉大社へ向かい、お勤めを済まされると山を登り一旦戻って朝食、さらにお勤めのあとに比叡山~赤山禅院へ。

ここでのお勤めを終えた後に京都市内を回り、下鴨神社にて仮眠をとります。そしてまた夜中に出発し、逆回りで比叡山へと戻るコースなのです。2日かけて行うコースを50回行い、100日間。

後半は100日間は比叡山を30km 回峰し75日目で、千日の満行を迎えるのです。

満行すれば『北嶺大行満阿闍梨(ほくれいだいぎょうまんあじゃり)』の称号が与えられます。

700日までは自分の為の修行にあたり、「自利行」、堂入り後に行われる800日以降の修行は、生身の不動明王として衆生を救済する「他利行」となります。

大行満阿闍梨となると京都御所で「土足参内(さんだい)」が許され、ここで天皇陛下の健康と国家の安泰をご加持するのです。

さらに5年続く『籠山(やまごもり)』

およそ7年間にわたる千日回峰行を満行しても、これで終わりではありません。

ここから5年間の「やまごもり」が始まるのです。合計すれば12年にわたる籠山。

『やまごもり』とは、まず満行後の2~3年以内に100日間に渡る五穀(五穀=米・麦・粟・豆・稗)だちを行います。

その後に自らの発願で7日間にわたり断食・断水をしながら、十万枚護摩供を行うのです。これは「火あぶり地獄」と例えられるほどのもので、大変厳しい条件のなか行われます。

あれだけ自身を限界まで陥れた修行を満行しても、まだこの「やまごもり」に挑めるのは、やはり生きた不動明王となったからなのでしょうか。
比叡山に伝わる千日回峰行の意味や、その奥深さはまだまだはかりしれないものがあるようです。

北嶺大行満阿闍梨は歴代51人(比叡山)

北嶺大行万満阿闍梨は歴代で51人、戦後は14人しかいません。

そのうち、46代目に当たる戦後9人目の「酒井雄哉(さかいゆうさい)」さんは2度にわたり満行。

戦後に満行された14名の方のみ、書き出してみました。

歴代 戦後 満行日 大行満阿闍梨となった人物
38代目 1人目 1946.9.19 叡南祖賢(えなみそけん)さん
39 2 1953.9.18 葉上照澄(はかみしょうちょう)さん
40 3 1954.9.16 勧修寺信忍(かんじゅじしんにん)さん
41 4 1960 叡南覚照(えなみかくしょう)さん
42 5 小林栄茂さん
43 6 1962 宮本一乗さん
44 7 1970 光永澄道(みつながちょうどう)さん
45 8 1979 叡南俊照(えなみしゅんしょう)さん
46 9 1980.10

1987.7

酒井雄哉(さかいゆうさい)さん

同上 、2回目

47 10 1990 光永覚道(みつながかくどう)さん
48 11 1994.10.18 上原行照(うえはらぎょうしょう)さん
49 12 2003.9.18 藤波源信(ふじなみげんしん)さん
50 13 2009.9.18 光永圓道(みつながえんどう)さん
51 14 2017.9.18 釜堀浩元(かまほりこうげん)さん

一日回峰行(体験)

歴代でも51人しかいない大行満阿闍梨、私達にはとうてい真似できることではありませんが、今では1日回峰行といった体験をすることができます。

1日20km の真っ暗な比叡山の山道を、行者が歩く(ほとんど小走りのようですが)同じコースをたどるといった内容です。

夕刻までに比叡山に集合し、17時から説明会や、夕食、仮眠をとります。仮眠といっても緊張の為か、なかなか眠れる人は少ないようですね。しかし、ここで少しでも休んでいないと、午前2時30分からはいよいよ出発です。

坂本を目指して歩くコースで行きは下りとなります。まだまだ暗闇の中を歩くため恐怖心も湧き、足元にも力が入ってしまう道のりです。

うっすら明るくなり始める午前5時30分頃に日吉大社に到着できる予定。ここでホッと一息、温かいお茶と朝食のおにぎりをいただきます。太陽の光がこんなに明るくて、ありがたいものだったと、改めて気づかされるそんな瞬間になるのではないでしょうか。

さぁ、ここからは帰路となりますが、帰りは上りが待っています。往路が下りだった分、足に負担がかかり自力で山を上り帰れないと判断した人は、ケーブルカーを使って帰るということも出来るようです。

※無動寺明王堂

ここは自分で判断をし、歩いて上る人は途中で堂入りで知られる「無動寺谷明王堂」を見たりしながら、午前9時頃には比叡山に到着するというコースになります。

疲れきった身体と足は、延暦寺会館のお風呂でゆっくりとほぐしてから解散です。

さいごに

ただ普段毎日を平常に過ごせれば良いと思っている私達には、挑んでみようと思える内容の修行では決してありません。

過酷としか言いようのない「千日回峰行」、何を求めてひたすら耐え歩き、何を得るための荒行であるのか。生きている意味や、自分に何が出来るのか、どうすれば良いのかを考えさせられる修行であるように感じました。

 

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みゆ

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