古来「断じて敢行すれば、鬼神も之(これ)を避く」などと言う通り、断固たる態度をもって臨めば、鬼神でさえも気圧され、制止しがたいものです。
しかし、止めようとするのは何も邪魔ばかりでなく、間違った方向へ突き進まぬよう諫める場合もあり、頭に血が上っていると、そうした善意の声も聞こえなくなってしまいがち。
すると周囲の者も、目上の者に対して要らぬ勘気を蒙らぬよう、事なかれ主義で何も言わなくなってしまいます。
それでも「ダメなものはダメ」「それは間違っている」「一度冷静に考え直すべき」など、我が身を顧みずに筋を通すというのは、並大抵ではありません。
今回はそんな平安時代の硬骨漢・安倍兄雄(あべの えお)のエピソードを紹介したいと思います。
不器用でまっすぐな性格
安倍兄雄は安倍道守(あべの みちもり)の長男として誕生。生年は不詳ですが、末弟の安倍男笠(おがさ。小笠)が天平勝宝5年(753年)に生まれているため、それ以前(740年代か)の誕生の誕生と推測されます。
桓武天皇(第50代。在位:天応元・781年~延暦25・806年)とその皇太子であった平城天皇(第51代。在位:延暦25・806年~大同4・809年)の二代に仕え、各地の観察使を歴任して地方行政の公平化・円滑化に尽力しました。
武芸が得意であったため、文官だけでなく武官も兼任していましたが、文武両道とはいかず、事務的な才能には恵まれなかったと言います。また大の犬好きで、自分とよく似た不器用でまっすぐな性格を愛したのかも知れません。
そんな兄雄が左近衛中将を務めていた大同2年(807年)10月、平城天皇の弟である伊予親王(いよしんのう。当時25歳)が謀叛の疑いによって逮捕されてしまいました。後世に言う「伊予親王の変」です。
偽証に陥れられた親王
伊予親王は桓武天皇の第三皇子で延暦2年(783年)に誕生、平城天皇とは異母兄弟の関係にありました。
平城天皇が即位すると中務卿に任じられ、皇族の重鎮として朝廷の中枢を担い、陛下との関係も良好だったのですが、この仲を裂く者が現れたのです。
「親王殿下に、謀叛を唆す不届き者がおるとの由……」
聞けば藤原宗成(ふじわらの むねなり)が伊予親王に近づいて、皇位を奪い取るべしと吹き込んでいるとか。
実際にそんな動きがあったようで、伊予親王も自分の潔白(謀叛を唆す声に応じる気などないこと)を証明するため、藤原宗成に謀叛を唆されたことを正直に伝えてきました。
「そうか、ただちに宗成を捕らえよ!」
たちまち逮捕された宗成でしたが、取り調べに際して「自分が唆したのではなく、親王殿下こそ謀叛の首謀者である」などと供述したのです。
「そうか、ただちに親王を捕らえよ!」
今度は伊予親王が逮捕されてしまいます。その任に当たったのが安倍兄雄。心ならずも軍勢を率いて親王の御所を包囲します。
「……殿下。心苦しく存じますが、誠意をもって訴えれば、必ず無実は証明されましょう」
「解った……」
かくして逮捕された伊予親王はその地位を剥奪、母親の藤原吉子(ふじわらの きつし)ともども川原寺(かわらでら。現:奈良県高市郡明日香村。現:弘福寺)に幽閉されました。
ただ一人、怒り狂う平城天皇に諫言
「ただちに二人を極刑に処せ!」
今まで信頼し、重く用いてきた伊予親王に裏切られたと思い込んでいる平城天皇の怒りは凄まじく、誰も異を唱えることができません。
「「「……」」」
「お待ち下され」
重苦しい沈黙の中、ただ一人口を開いたのが安倍兄雄でした。
「親王殿下の御謀叛容疑について、現時点では宗成めの言葉以外に証拠がございませぬ。口先でなら何とでも言えます。なにぶん天下の重大事にございますれば、取り調べは十分な時間をかけて慎重に行い、間違いのないようにせねば、後から悔やんでも失われた命は戻りませぬぞ……」
至極もっともな言い分ではありましたが、それでも平城天皇は怒りが収まることなく、けっきょく伊予親王と藤原吉子については食事を与えず餓死させることに決定。
「もはや、これまでか……」
大同2年(807年)11月12日、絶望した二人は服毒自殺を遂げてしまいます。藤原宗成が流罪とされた他、以下の者が処罰されました。
【伊予親王の変において処罰された者】
継枝王(つぐえのおう。伊予親王の長男)……流罪
高枝王(たかえのおう。伊予親王の次男)……流罪
某女王(実名不詳、伊予親王の娘)……流罪
中臣王(なかとみおう。伊予親王の庶子?)……拷問により獄死
雄宗王(おむねおう。伊予親王の庶子?)……流罪
藤原雄友(おとも。吉子の兄で伊予親王の伯父)……流罪
藤原友人(ともひと。吉子の兄で伊予親王の伯父)……左遷
藤原乙叡(たかとし。吉子の親族)……罷免
橘安麻呂(たちばなの やすまろ。吉子の親族)……罷免
橘永継(ながつぐ。安麻呂の親族)……不明(罷免か)
橘百枝(ももえ。安麻呂の親族)……左遷
秋篠安人(あきしのの やすひと。謀叛に関与)……罷免
かくして「伊予親王の変」は終わりを告げ、筋を通したものの親王を弁護し切れなかった兄雄は大同3年(808年)10月19日に病死してしまいました。
エピローグ
しかしその後、伊予親王の無実が証明され、事件から16年が経った弘仁14年(823年)、淳和天皇(第53代)によって母と共に復位・復号(身分と称号の回復)がなされます。
さらに16年が経った承和6年(839年)には仁明天皇(第54代)から一品の位が追贈されて一品親王(いっぽんしんのう)となり、完全に名誉が回復されたのでした。
(誠の心をもってすれば、どれほど歳月を経ようと必ず報われましょう)
死んでしまったら意味がない、と言う考えもあるでしょうが、やはり「お天道様は見てござる」もの。
たとえ目先の不利益を蒙ろうと、道義をまっとうしようと訴えた安倍兄雄の至誠は、今なお私たちの胸を打ちます。
※参考文献:
- 北山茂夫『日本の歴史〈4〉平安京 (中公文庫)』中公文庫、2004年8月
- 森田悌『続日本後紀 全現代語訳 上下巻合本版 (講談社学術文庫)』講談社学術文庫、2006年11月
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