平安時代

坂上田村麻呂について調べてみた【武の象徴として軍神になった征夷大将軍】

忠臣として名高い 坂上田村麻呂

征夷大将軍と聞くと思い浮かぶのは鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康の3人のうち誰かはすぐに思い浮かぶと思う。

しかし、征夷大将軍=幕府を開くための役職ではなく、本来は朝廷にあだなす敵を討伐するために設けた役職だった。

今回はその役職を全うした奈良時代から平安時代にかけての人物、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の生涯を追ってみたいと思う。

教科書には名前は出ているが何をしたか明確にはわからず仕舞いだったので、どんな生涯を送っていたか気になるところである。

蝦夷征伐

坂上田村麻呂について調べてみた【武の象徴として軍神になった征夷大将軍】

坂上田村麻呂 wikiより

田村麻呂は天平宝字2年(758)に産まれた。父は苅田麻呂(かりたまろ)。元来、坂上氏は弓馬に秀でた武門の一族であることから当時、積極的に力を入れていた蝦夷(東北)征伐に参加することになる。
なぜ、蝦夷征伐に力を入れていたのかというと律令国家の支配圏を東北にまで伸ばし、広大で豊かな土地を手に入れるためであった。

田村麻呂は延暦11年(792)、第2次征伐に加わると最初の征夷大将軍である大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐する征東副将軍に命じられた。この時、田村麻呂は健児制(こんでんせい:地方の郡司子弟を兵士にすること)を起用し兵の質を高めたことで大きな戦果を出すことに成功している。

その後は延暦15年(796)に陸奥出羽按察使(あぜち:地方行政を監督する役職)、陸奥守、鎮守府将軍と3つの職を検認することになるが、翌年には弟麻呂が老いのため辞職した征夷大将軍を田村麻呂が引継ぎ、蝦夷の支配するための全ての職を併せ持つようになる。

征夷大将軍になった田村麻呂が行った延暦20年(801)の第3次征伐では、胆沢地方を制圧する戦功をあげた。

阿弖流為の降伏

坂上田村麻呂について調べてみた【武の象徴として軍神になった征夷大将軍】

阿弖流為・母礼の碑 wikiより

翌年には制圧した胆沢地方に城(胆沢城)を築くために造胆沢城使として陸奥国へ行き、守りを固めた。田村麻呂は胆沢地方を開拓していく中で稲作の普及に努めた。

そんな中、蝦夷における代表的な指導者である阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の2人が田村麻呂に降伏する。2人を平安京に連行した田村麻呂は2人の助命を朝廷に頼むが、裏切ることを想定していた朝廷は田村麻呂の意見に反対し、2人を処刑した。

その後延暦23年(804)の第4次征伐を経て、翌年の延暦24年(805)には坂上氏で初めて参議に任命された。そして、今後の蝦夷征伐は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の意見に賛成した桓武天皇によって中止となり、田村麻呂は活躍の場を失ってしまうが、征夷大将軍という職は臨時職でありながらも田村麻呂は征夷大将軍の職を維持し続けた。

桓武天皇の死後

坂上田村麻呂について調べてみた【武の象徴として軍神になった征夷大将軍】

桓武天皇 wikiより

桓武天皇が延暦25年(806)に亡くなると病弱だった平城天皇(へいぜいてんのう)が天皇となった。

田村麻呂は平城天皇に気に入れられており、側近として仕えていた。平城天皇が即位してすぐに起きた伊予親王の変では、当時田村麻呂は兵部卿に任命されていたからこの事件には関わっていなかった。
その後は大同4年(809)には父の苅田麻呂を越える正三位となった。

薬子の変

坂上田村麻呂について調べてみた【武の象徴として軍神になった征夷大将軍】

嵯峨天皇 wikiより

伊予親王の変後、体調不良のために平城天皇は嵯峨天皇に譲位し自身は平城上皇になり平城京へ移った。

しかし、嵯峨天皇は平城上皇が行った観察使(地方行政を監視する役職)を廃止し、再度参議の職を戻したところ、2人は対立し平安京と平城京の2つに朝廷がある二所朝廷の状態になる。

大同5年(810)に平城上皇は寵愛していた藤原薬子(ふじわらのくすこ)とその兄、藤原仲成(ふじわらのなかなり)の協力を得て、平安京から平城京に都を移す詔勅(しょうちょく)を出した。嵯峨天皇はこのことには驚くが、田村麻呂藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)を平城京造宮使に任命して遷都には従う姿勢を見せたが、平城京遷都拒否を決断し仲成を左遷し、薬子を平城京から追い出す詔を出した。

これに怒った平城上皇は蝦夷の力を借り、嵯峨天皇を打倒するために東国へ向かうことを計画するが、大納言に昇進した田村麻呂が指揮する兵団に行く手を阻まれていることを知った平城上皇は剃髪し出家。そして薬子が自殺したことで嵯峨天皇の勝利で二所朝廷の対立は終わりを迎えた。

その後は弘仁2年(811)の豊楽院(ぶらくいん)で毎年1月17日に行われる射礼を閲覧した後に、嵯峨天皇が戯れで弟の葛井親王(ふじいしんのう)に射させたところ、百発百中であった。これに一番喜んだのは葛井親王の外祖父である田村麻呂だった。田村麻呂は葛井親王を抱いて舞い、嵯峨天皇に葛井親王の武芸を褒めるくらい子ばかであった。

そして、同年の5月23日に病にて亡くなり、54歳の生涯を終えた。死後は平安京の東に向かって立ったまま埋葬されている。

最後に

天皇のために忠節を尽くし続けて生きた坂上田村麻呂

その活躍は後世には伝説と語られる部分が多くなってしまうが、武の坂上田村麻呂・文の菅原道真と評価されることになる。軍神として、武芸の神として崇められた田村麻呂は多くの武士たちから尊敬の眼差しを受けていたことだろう。

天皇や国家の為に生涯を使い、数々の事件を天皇の側で体験し勝利に導いてきた田村麻呂の底力は、自分のためではなく誰かのためにという奉仕の精神が強かったのではないかと思ってしまう。それ故に天皇から信頼を得ることができ、大納言の地位まで昇進できたのだと考えてしまう。

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コメント

  1. アバター
    • 匿名
    • 2020年 2月 25日 10:20am

    よく誤解されてますけど、アテルイとモレは律令国家の人間てして律令によって処刑されていません
    もし律令国家の人間であれば平安京の西の市か東の市で公開処刑ですが、河内国椙山で斬られたとあるので、平安京の外でただ斬られたのです

    他にも間違いが多く、アテルイとモレの歴史的実像が全く異なっていますね

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    • アバター

      ご指摘ありがとうございます。
      もしよろしければ、間違いの箇所を教えていただけないでしょうか?

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 1月 24日 4:37pm

    蝦夷といっても一つの国家があったわけではなく、東北各地に蝦夷の豪族が乱立していました。蝦夷の豪族同士で対立もありますから、大化の改新によって律令国家となったヤマト政権が東北地方に進出してくると、律令国家を後ろ楯として力を付けていく蝦夷の豪族も現れます。
    一方では律令国家は東北各地に拠点を建設すると関東などから農民を送りこんで出羽国や陸奥国を作りました。拠点では蝦夷との交易も積極的に行われて、拠点の周辺に住む蝦夷も現れました。
    蝦夷と律令国家の関係は多少反乱はありますが比較的平和で、平城遷都直後には陸奥国の蝦夷に君姓賜与が行われました。律令国家との交易で財を成した蝦夷族長が立場の安定化のために公民化を願い出たわけですね。蝦夷族長としての立場が保証される反面、律令国家の農民と同じく納税の義務も発生します。
    史料には大墓公阿弖利爲とあるように、アテルイも大墓公という姓を与えられて納税していた律令国家の側に立つ蝦夷族長です。

    ものすごく簡素な説明になりましたが、公民化を願い出て納税していたアテルイはじめ蝦夷たちは朝廷にあだなす敵でしょうか?
    間違いの箇所といいますか、蝦夷征討について基礎的な部分すべてが間違いです。

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