人気観光地・京都でも常にNo.1の人気を誇る清水寺
世界に名だたる観光地・京都。その中でも常にNo.1の人気を誇るのが「清水寺」です。
「清水寺」は、奈良時代末期の宝亀9(778)年に、延鎮上人が夢のお告げにより音羽山中に清滝を発見、長年滝修行を行っていた行叡居士から「観音像を彫刻し寺院を建てよ」と遺命され、草創したと伝わります。
延鎮上人に帰依していた坂上田村麻呂が観音の霊験により、東征に勝利できた報謝に本堂を整備しましたのが始まりとされます。
本堂には秘仏の本尊の十一面千手観音が祀られる
「清水の舞台」として有名な「本堂」は寛永10(1633)年に再建された大堂で、正面36m強・側面約30m・棟高18mの規模を誇ります。堂内は巨大な丸柱により、礼堂である外陣・内陣・内々陣の3つに分かれます。優美な曲線をみせる寄棟造りで。屋根は檜皮葺き、軒下の蔀戸などは平安時代の宮殿、貴族の邸宅の優雅さを今に伝える建築物です。
本堂最奥の内々陣・須弥壇上にある三基の厨子に、本尊の十一面千手観音と脇侍の勝軍地蔵菩薩、毘沙門天が祀られています。十一面千手観音は、十一の表情と四十二の手で大きな慈悲を表し、人々を苦難から救うといわれています。
この三尊像は秘仏で、33年に一度しか開扉されないので、普段は外陣から御正体の懸仏を拝観することになります。
清水の舞台は本尊に芸能を奉納するための舞台だった
「本堂」の前に張り出すのが、4階建てのビルの高さに相当する「清水の舞台」です。最長約12mの巨大な欅の柱を並べ、「懸造り」という工法で、釘を1本も使わずに組み上げた木造建築として余りにも有名。
この舞台は、本尊に芸能を奉納するための場所で、平安時代から現代まで。雅楽・能・狂言・歌舞伎など様々な芸能が奉納されています。いま多くの参詣客や観光客が、欄干にもたれて眼下を覗いたり、京都市街をバックに記念撮影をしている舞台の本当の役目は、本尊のために設けられた奉納の舞台であったのです。
清水寺は阿弖流為・母禮の鎮魂の寺院でもあった
ではここからは「清水寺」創建にまつわるもう一つのお話を紹介しましょう。
桓武天皇が都を平城京(奈良)から長岡京(長岡京市)を経て、平安京に遷したのは、延暦13(794)年のことです。この西暦は、「なくようぐいす、へいあんきょう」の語呂合わせで覚えている人も多いことでしょう。
平安京遷都の理由は様々なことがあげられます。奈良の仏教勢力からの距離を置くため、停滞する律令体制の立て直しなどです。事実、この時代になると、奈良時代に施行された「永年墾田私財法」などにより、律令政治の根本である公地公民制と班田収受法が実態をなさなくなっており、朝廷は深刻な財政難に陥っていました。
そこで桓武天皇は東北の経営、すなわち対蝦夷戦争に乗り出します。東北は金脈があり、優秀な馬の産地でしたので、朝廷による対蝦夷戦争は、飛鳥・奈良時代から進められていました。
ただ古代律令国家は、支配領域の北に住む人々を「鬼」とみなし「蝦夷(えみし)」と呼んで、卑下していたのです。朝廷は、境界領域に城柵を築いて軍事的な威圧と懐柔を繰り返しながら、彼らの服属と内民化を図りました。
しかし、こうした朝廷に対し東北の民達は激しく反発したのです。そして延暦8(789)年の征東戦で、蝦夷最大のヒーローが現れます。
それが、阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)であったのです。
彼らがリーダーとして指揮をとりはじめると、朝廷軍は大敗を喫することになりました。
そんな状況を打開するために、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命します。
田村麻呂は娘の春子を桓武天皇の后として外戚関係を結び、軍事貴族としての地位を確立していました。もともと坂上氏は、渡来人漢東氏の末裔で「武」に優れた家柄でした。田村麻呂の父・苅田麻呂は奈良時代末期の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で、孝謙上皇側の部将として活躍し、上皇勝利に貢献しました。
延暦20(801)年、坂上田村麻呂は4万の軍勢を率いて蝦夷軍と戦いました。
この戦いで、阿弖流為・母禮は、500人余の蝦夷を率いて田村麻呂に降伏します。田村麻呂は、彼らの智略・武勇を評価し、助命のうえ東北経営の一端を任せるべきと朝廷に進言しました。しかし、その嘆願は受け入れられず、2人は処刑されてしまいます。
清水寺は、志し半ばで散った北天の雄、阿弖流為・母禮の鎮魂の寺院でもあったのです。
※参考文献:
佐藤信編『古代史講義 戦乱篇』ちくま新書、2019年3月
佐藤信編『古代史講義 氏族篇』ちくま新書、2021年5月
高野晃彰編・京あゆみ研究会著『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ、2022年2月
高野晃彰編・京都歴史文化研究会著『京都札所めぐり』メイツユニバーサルコンテンツ、2020年4月
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