紫式部と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。
平安時代の女性で源氏物語の作者という情報なら、日本人の多くが知っているはずだ。では彼女がどのような身分で何を思い、どのような人生を送ったかについては知っているだろうか。
日本が誇る世界最古の長編恋愛小説『源氏物語』を書いたのはどのような女性だったのか、詳しく解説していこう。
幼少期の紫式部
紫式部の正確な誕生年はわかっていないが、おおよそ西暦973年に生まれ1031年に没したといわれている。
彼女の父の藤原為時は優れた頭脳の持ち主で、貴族の中では低い身分ながらも花山天皇に直々に漢学を教えた学者であり、紫式部は父の頭脳を兄弟の中でも一番色濃く継いだ才女だった。
紫式部の母は早くに亡くなり父のもとで育てられた。兄弟は藤原惟規の他に慕っていた姉がいたが、その姉も早くに亡くなっている。
紫式部という名はいわばペンネームのようなもので、女房としての名は藤式部であり、「式部」は父である藤原為時の官位「式部丞」に由来し、「紫」は『源氏物語』の登場人物である「紫の上」に由来するといわれている。本名ははっきりしていないが、藤原香子(かおるこ/かおりこ/よしこ)とする説がある。
紫式部は幼い頃から聡明で、当時は男性の教養とされていた漢文を兄弟の中で誰より早く読みこなした。文学の才能に恵まれた彼女の著作は『源氏物語』以外にも、宮仕えの日常を記した『紫式部日記』や和歌集『紫式部集』が知られている。
しかし紫式部が少女の頃は、女性が漢文に長けることは決して褒められたことではなかった。女性が男性と張り合って漢文を読み漢字の知識をひけらかすのは、はしたないことだと考えられていたからだ。そのため『源氏物語』も当時女性の文字とされたひらがなで綴られている。
幼き日の紫式部の賢さを象徴する逸話として、父・為時が後継ぎである息子の惟規に漢文を教えていても紫式部の方が早く覚えてしまうので、「娘ではなく息子だったら良かったのに」と嘆いたという話が残っている。
夫の死をきっかけに『源氏物語』の執筆を始める
紫式部は20代後半の時に親子ほど年が離れた藤原宣孝と結婚して、娘の賢子(大弐三位)を生んでいる。
当時の女性としてはかなりの晩婚で、おそらくは紫式部にとっては2回目の結婚だったのではないかと考えられている。しかし宣孝は結婚からわずか3年ほどで、流行り病で亡くなってしまった。
未亡人となった紫式部は子育てをしながらも、夫を失った悲しみや寂しさを紛らわすために『源氏物語』の執筆を始めたという。
一方宮中では、藤原道長の娘である彰子が中宮定子と並び新たな中宮となった。しかし一条天皇の定子へ思い入れは深く、定子に清少納言という優秀な女房がついていることが寵愛の理由だと考えた道長は、彰子にも清少納言に負けない優れた女房をつけようと考えた。
そこで白羽の矢が立ったのが、面白い物語を書く人物として貴族の間で評判になっていた紫式部だった。
紫式部は1006年もしくは1007年に中宮彰子の女房兼教育係として仕え始める。そして宮仕えの傍らで藤原道長の支援を受けながら、物語の執筆を続けた。
こうして、仲間内で読み回すための趣味の小説として書かれ始めた『源氏物語』は、全54帖にも及ぶ長編作品として完成したのだ。
紫式部と藤原道長
紫式部と藤原道長は愛人関係だったという話がある。
南北朝時代から室町時代初期に記された公家系譜をまとめた文献『尊卑分脈』の紫式部についての説明に、「御堂関白道長妾」という記述があるからだ。
『紫式部日記』には道長からの誘いを紫式部がはぐらかしたという記述があるが、道長がそれ以降も諦めていなかったとしたら2人が愛人関係を結んでいても、高貴な男性が複数の女性を囲うのが当たり前な当時の慣習を考えれば不思議ではない。
また紫式部と道長の妻で彰子の母である源倫子は遠縁にあたる上に、紫式部が倫子付きの女房であったという説もあり、彰子が中宮となる前から若き日の紫式部と道長に面識があった可能性も示唆されている。
平安時代の高貴な女性は夫や恋人、家族以外の男性に顔を見せることはなく、男女の恋愛において和歌のやり取りはお互いの知性や感性を知り合うための重要な手段だった。
『紫式部日記』の中で道長は何度も紫式部と歌の交わし合いを行うが、自分が送った歌に対していつも巧みな歌を返してくる紫式部に、道長が心惹かれた可能性は大いにあるだろう。
紫式部と清少納言
紫式部と清少納言の仲が悪かったという通説があるが、お互いがライバル視していたというよりは、紫式部が先に中宮付きの女房であった清少納言を一方的に敵視していたと考える方が正しいだろう。
紫式部が彰子の女房として宮仕えを始めた頃には既に定子は亡くなっており、清少納言も宮中を後にしていた。つまり2人の間に直接の面識はなかったのだ。それにも関わらず、『紫式部日記』には清少納言の陰口のような言葉が記されている。
清少納言が仕えた定子と女房達の集まり、いわゆるサロンは明るさと華やかさで名を馳せたのに対し、紫式部が仕えた彰子のサロンは地味で大人しい雰囲気で、新鮮味がなかったという。
同じ一条天皇の后のサロンとしてどうしても比べられてしまう上に、華やかだが陰のある貴族社会が苦手だった紫式部が、華やかで明るい感性を持ち自らの知識を披露することに抵抗がなく、ついでにかつて自分の亡き夫を馬鹿にするような記述をした清少納言に対して、やっかみのような感情を持っていたことは想像に難くない。
紫式部と清少納言については以下の記事がより詳しい。
清少納言と紫式部は仲が悪かったというのは本当なのか?
https://kusanomido.com/study/history/japan/heian/17630/
才女でありながら苦労人だった紫式部
まばゆいほどに美しい貴公子が、華やかな宮中を舞台に繰り広げる壮大な恋愛物語の作者である紫式部は、華やかな経歴を誇る恋多き女性ではなく、むしろ煌びやかでありながら陰謀渦巻く貴族社会が苦手な女性だった。
幼くして母と母代わりの姉を亡くし、頭の堅い父には女として生まれたことを嘆かれ、遅くに結婚した夫には早く先立たれる上に宮中で心許せる相手は少ないと、紫式部の生涯にはいつも静かな苦労と寂しさがつきまとう。しかしだからこそ物語の世界の中だけでは自由に、華やかで心ゆさぶる恋模様を描くことができたのではないだろうか。
2024年1月から始まる大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部にスポットが当てられる。雅でありながら油断ならない平安の世で、後世にまで語り継がれる名作を生み出した紫式部の生涯がどう描かれるのかに注目だ。
参考文献
岡一男『増訂 源氏物語の基礎的研究 -紫式部の生涯と作品-』
角田文衞『紫式部伝―その生涯と『源氏物語』―』
倉本一宏『紫式部と藤原道長』
上原作和『紫式部伝ー平安王朝百年を見つめた生涯』
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