日が落ちると、まさに「一寸先は闇」となる平安時代の京の都。
真っ暗になると鬼や妖怪たちもイキイキできたようで、「百鬼夜行(ひゃっきやこう)」をはじめ摩訶不思議な逸話がたくさんあります。そして、異能や霊力など不思議な力を司る人物もいました。
平安時代の能力者といえば陰陽師・安倍晴明が有名ですが、実は、平安初期の公卿・文人・遣唐使でもあった小野篁(おののたかむら)も、不思議な能力の持ち主なのです。
偉丈夫で遊び好きながら、誰しもが認める才能
小野篁(おのの たかむら)は、平安初期、名門・小野氏が期待する若手のエースでした。
その当時、男性の平均身長は約161cmほどでしたが、篁は約190cmと非常に体格が良かったようです。
篁は武道を好む一方で、漢詩人としても名高く、「文章 天下無双(天下に並ぶ者がいないほど優れている)」と評されていました。彼はまた、日本初の勅撰漢詩集『※凌雲集』の撰者の一人でもありました。
※凌雲集:平安時代初期の弘仁5年(814年)、嵯峨天皇の命により編纂された日本初の勅撰漢詩集
それだけの才能の持ち主でありながら、若い頃の篁は弓馬の遊びに夢中になっていました。
このため、嵯峨天皇に「岑守(みねもり※)の子であるのに、なぜ弓馬の士になってしまったのか」と嘆かれてしまい、その言葉を聞いて篁は態度を悔い、学問に身を入れるようになったといいます。
※岑守:篁の父で嵯峨天皇の皇太子時代から侍読、近臣として仕えた漢詩人・歌人で遣隋使妹子の玄孫)
18歳を過ぎてから勉強に励んだ篁は、わずか3年余りで当時最難関とされた、「文章生試」に見事合格したのです。
「野狂」と呼ばれたパッションを持つ奇行の公卿
小野篁は22歳の頃に朝廷に出仕し、順調にキャリアを重ねていきました。そして、承和元年(834年)には遣唐副使に任ぜられます。
当時は最先端の唐(中国)の文化を取り入れるため、多くの才人が遣唐使として送られていました。篁もその芸術芸能の優れた才が高く評価されての任命でした。
しかし、篁は2回出航するもいずれも失敗に終わります。そして、3回目の出航時にひと騒動が起こります。
遣唐大使である藤原常嗣(ふじわら の つねつぐ)が乗っている第一船が破損し、漏水してしまったのです。そして大使は、理不尽にも壊れた第一船と、遣唐副使の篁が乗る第二船を取り替えようとしました。
当然、篁は部下たちに損害の責任を押し付けようとする遣唐大使に猛抗議し、持病と老いた母親の世話を理由に、乗船を拒否しました。さらに、怒りのあまり『西道謡(さいどうよう)』という、遣唐大使制度や朝廷を風刺する詩を作ったのです。
正確な内容は残っていませんが、その詩には現代でいう「NGワード」が多用されていたと言われています。もしかしたら、平安時代版の「国や政府の政策を批判するラップ」のようなものだったのかもしれません。
その詩を読んだ嵯峨上皇は大激怒し、篁の官位を剥奪し、隠岐国へと流罪に処しました。
しかし反骨精神に溢れる篁は、流罪の地に出立する際に、後世に残る歌を残したのです。
百人一首でも有名な小野篁の歌
「わたの原 八十島やそしまかけて 漕こぎ出でぬと 人には告げよ 海人あまの釣り舟」
【意訳】流罪の刑を受けたわたしは、自分の信じるところに従い、大海原に広がる島々を目指し漕ぎ出して行ったと、都の人たちに伝えておくれ、釣り人よ
小倉百人一首にも入っている有名な歌です。この歌は京の都で大評判となりました。
小野篁は自分が乗るべき船を遣唐大使に横取りされ、その横暴さを訴えましたが、結果的に流罪の刑に処されました。それでも後世に残る歌を詠んだのです。
遣唐大使への猛抗議や朝廷を批判する漢詩、そして島流し直前に詠んだ歌のいずれが原因かは定かではありませんが、その反骨精神に溢れた行動から、小野篁は「野狂(やきょう)」とも呼ばれていました。
そんな篁の非凡な才能を惜しんだのでしょうか、一年半後に嵯峨上皇は篁を京都へ呼び戻しました。
その後、篁は刑部少輔や式部少輔など、次々と要職を任されました。
卓越した能力が高く評価され、晩年まで三代にわたり天皇の寵愛を受け続けたのです。
昼間は朝廷の役人、夜は閻魔大王の手伝い
才能に溢れながらも破天荒な行動が目立った小野篁には、不思議な逸話が数多く残されています。
「昼、朝廷の役人として働いているのは仮の姿で、夜は冥界に行って地獄の閻魔大王の手伝いとして裁判の補佐をしていた」
というもので、『江談抄(ごうだんしょう)』『今昔物語集』『元亨釈書』など、平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に残されています。
『今昔物語集』には、大臣・藤原良相が重病に陥り亡くなって、閻魔大王のもとに赴いた際、大王の隣に小野篁がいて「この人は心根がまっすぐな人なので、私に免じて命を助けてほしい」と進言したという話があります。
篁のおかげで現世に蘇った良相が、後日そのことを尋ねると、篁は「昔、若かったときに失敗したのをかばってくれた恩返しです」と答え、「決して他言はしないように」と付け加えたそうです。
また『江談抄』には、藤原高藤が百鬼夜行に遭遇してしまい、その後急死したものの、後日息を吹き返し「閻魔大王の冥官として小野篁がいたおかげで、現世に戻れた」と話したという逸話があります。
さらに、そのはるか後の話になりますが、あの紫式部も、「愛欲にまみれた『源氏物語』という虚構を描いた罪」で地獄に堕ちるところだったのを、小野篁がとりなしたという逸話もあるのです。
冥土と現世を行き来できる「井戸」
小野篁は、朝廷と冥府を行き来するために、井戸を利用していたとされています。
京都東山にある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)には、「冥土通いの井戸」と「黄泉がえりの井戸」があり、篁はこれらを通じて現世と冥府を行き来していたという伝説があるのです。
篁は母親思いの人物であり、母が亡くなった後、「冥府にいる母に会いたい」と願い、「冥土通いの井戸」に足を踏み入れました。そこで、母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいるのを見かけました。篁は閻魔大王に母の魂を救うよう願い、その代わりに「自分が夜は冥官として仕える」と申し出ました。
この交渉が成立し、篁は現世と冥府の両方で働くようになったと伝えられています。
また、六道珍皇寺の閻魔堂には「閻魔大王坐像」と、ほぼ等身大の「小野篁卿立像」が安置されています。
平安時代の人物としては非常に大柄な体格を持つ像です。
この世とあの世の堺目
六道珍皇寺の付近一帯は「六道の辻」と呼ばれ、「この世とあの世の境目」がちょうど同寺の境内あたりにあるとされ、「冥界への入り口」として知られていました。
京都では、六道珍皇寺は「六道さん」の名で親しまれ、お盆の精霊迎えに参拝するお寺としても有名です。
また、江口夏美さんの漫画『鬼灯の冷徹』に小野篁が登場して以来、寺を訪れる女性ファンも増えたとのことです。
冥界と現世を自由に行き来できる不思議な霊力を持ち、「野狂」と呼ばれるほど大胆で反骨精神に溢れ、なおかつ才能豊かだった小野篁は、平安時代の人物でありながら現代でも魅力的に映ります。
なお、「冥土通いの井戸」は通常非公開ですが、特別公開時には見学できるため、公式HPなどで確認のうえお出かけください。
六道珍皇寺 公式HP
http://rokudou.jp/
参考:
六道珍皇寺 公式HP
小野篁 その生涯と伝説 繁田真一 著
今昔物語集「巻二十第四十五話 小野篁、右大臣の良相を蘇生させる」
小さな資料室 小野篁広才の事 宇治拾遺物語より
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