平安時代の政治では、藤原氏による摂関政治(せっかんせいじ)が有名である。
摂政とは、幼少で皇位に就いた天皇や、病弱で政務を執ることが困難な天皇を補佐し、天皇に代わって政治の重要な判断を行う役職である。この役職の先駆けとしては、聖徳太子(厩戸皇子)が推古天皇の摂政を務めた例が知られている。
一方、成人した天皇を補佐して政務を行う役職である関白は、奈良時代にはまだ存在せず、平安時代に入ってから制度として確立された。
この転換点となったのが、第59代宇多天皇の即位時に起きた、藤原北家の有力者である藤原基経(ふじわらのもとつね)との衝突である。
この事件は阿衡事件、または阿衡の紛議(あこうのふんぎ)として知られ、天皇と基経との間での衝突が関白制度誕生の契機となった。
本稿では、この阿衡事件と、関白制度の確立に至るまでの経緯について詳しく解説する。
宇多天皇が即位した背景
第59代宇多天皇は、第52代嵯峨天皇のひ孫にあたり、第58代光孝天皇(こうこうてんのう)の第7皇子として生まれた。
彼の父である光孝天皇は、第57代陽成天皇(ようぜいてんのう)が暴虐とされ廃位された後、時の権力者であった藤原基経によって擁立され即位した。
光孝天皇が即位したのは55歳の時であり、自身の皇太子を定めることなく、藤原基経にその選択を委ねた。さらに、光孝天皇は、自身の皇子・皇女全員を臣籍降下させ、源氏とすることで、自らの血統が皇位を継がない方針を示した。
これは、基経の意向に配慮し、基経の血縁者を皇位に就けることを可能にする環境を整えるためだったと考えられる。
基経には、第56代清和天皇に嫁いだ娘の藤原佳珠子との間に貞辰親王(さだときしんのう)という皇子がいたため、基経が自らの血統を皇位に就ける可能性を持っていた。
こうした光孝天皇の配慮によって、基経の権力基盤はさらに安定したものとなった。
光孝天皇が基経にこれほどまでに配慮した理由としては、陽成天皇廃位後、基経の支持なくして光孝天皇の即位は成り立たず、さらに、基経の権力基盤を維持することで、短期間の治世を安定させ、次代に繋ぐことを目指したためとされる。
また、光孝天皇は、太政官から上申される政務を天皇に奏上する権限である「機務奏宣」を基経に委任した。これは後に関白の職務となるものであり、基経が権力を維持しやすいようにするための措置であった。
しかし、光孝天皇は即位からわずか3年後、病に倒れ、その容態は次第に悪化した。そのような中で、基経は、臣籍降下していた光孝天皇の皇子から、源定省を皇位継承者として選出した。
基経が自らの血統の貞辰親王ではなく、源定省を皇位継承者として選んだ理由としては、貞辰親王がまだ幼かったことと、源定省が成人していて政治的安定性を持つ上、基経の異母妹・藤原淑子との強い繋がりがあったためである。
また、基経に反発する勢力を抑える穏健な選択肢として最適だったためと考えられる。
しかし、これまで臣籍降下した者が皇位を継いだ前例はなく、基経はまず源定省を親王に復帰させ、その後皇太子に立てるという手続きを取った。
そして、定省親王として復帰し東宮となった同日、光孝天皇は崩御した。
こうして定省親王は直ちに皇位を継承し、第59代宇多天皇として即位したのである。
藤原基経とはどんな公卿だったのか
藤原基経(ふじわらのもとつね)は、平安時代の中期において、藤原北家の中核を担った公卿である。
彼は、藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖・藤原房前(ふじわらふささき)の子孫であり、薬子の変を経て権力を拡大した藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の孫にあたる。
父は中納言・藤原長良(ふじわらのながら)であるが、当時摂政を務めた叔父の藤原良房(ふじわらのよしふさ)に男子がいなかったため、基経は良房の養子となり、その権力基盤を継承した。
基経は、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の4代にわたり朝廷の実権を掌握し、政治的な頂点に君臨した。
陽成天皇が即位した876年には既に右大臣となっており、880年には太政大臣に就き、太政官の頂点に昇りつめていた。
その後、奇行が目立つ陽成天皇を16歳で廃位させ、その代わりとして光孝天皇を擁立した。
光孝天皇の即位後も、基経は光孝天皇の深い信任を受け、権力を維持した。
前述したように、光孝天皇は皇位継承者の選定を基経に委ねたが、基経は自らの孫である清和天皇の第7皇子貞辰親王(さだときしんのう)ではなく、光孝天皇が臣籍降下させていた皇子の定省親王を選び、宇多天皇として擁立した。
このように、基経は自身の権力基盤を固めつつも、皇位継承においては単なる私的な利益を超えた判断を行い、平安時代の政治を形作る重要な役割を果たしたのである。
宇多天皇と基経が衝突した「阿衡事件」とは
宇多天皇が即位した後、天皇は左大弁の橘広相(たちばな の ひろみ)に詔を起草させ、「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし」と記した。
この詔の意図は、政治上の重要事項について太政大臣である基経の承認を得た上で、天皇に報告するという手続きを明確にすることにあったと考えられる。
基経は、儀礼的に一度辞意を示したが、宇多天皇はさらに橘広相に命じて
「宜しく阿衡(あこう)の任を以て、卿の任となすべし」
との詔を作成させた。
しかし、この詔の中に登場した「阿衡(あこう)」という語が問題となった。
阿衡(あこう)とは、中国の殷代における賢臣・伊尹(いいん)が任じられた官名である。
つまり橘広相は、基経の功績を伊尹になぞらえて讃えるために引用したのである。
しかし、文章博士で基経の家司であった藤原佐世が「阿衡は地位こそ高いものの、名ばかりで実際の職務を持たない官である」と解釈し、これを基経に伝えたことで大問題となった。
基経はこれを自身を軽視するものと捉え、政務を放棄してしまったのだ。
宇多天皇はこの事態に困り果て、詔の意図を説明するなど基経の説得に努めた。しかし基経は納得せず、朝廷内でこの問題を起草した橘広相の責任が問われるようになった。
天皇は広相を擁護するため、基経の娘である藤原温子を後宮に入れるなど、基経との融和を図ったものの、最終的には問題の詔を撤回するに至った。
この撤回によって、基経の権威はさらに揺るぎないものとなる。
その後、基経に「関白」の職務を正式に委ねる詔が発せられた。
この「関白」という役職は、時を経て、豊臣秀吉が就任したことで広く知られる役職であるが、天皇を補佐し、政務の中心となる重要な地位である。
阿衡事件をきっかけに、この役職が確立されたことで、藤原氏による摂関政治の基盤が築かれることになった。
こうして、阿衡事件は藤原基経が一族の力をさらに強める大きな転機となり、平安時代を通じた藤原氏の支配の始まりを象徴する出来事となったのである。
参考 :
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・ビジュアル百科 天皇<125代>の歴史 西東社
文 / 草の実堂編集部
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