平安時代の社会的変化とは?
NHK大河ドラマ「光る君へ」の舞台である平安時代(中期から後期)は、日本史の中でもトップレベルに入るほど、大きな社会的変化があった時代です。
平安時代といえば、藤原氏の北家による摂関政治を思い浮かべる方が多いかもしれません。
摂関政治とは、天皇の親族(藤原氏)が摂政や関白といった役職を通じて、天皇に代わって政治を行う制度です。
藤原氏は政治の実権を握り続け、長い期間にわたって日本の政治を支配しました。長年にわたる律令体制が上手く機能しなくなり、藤原氏による「王朝国家」に変貌を遂げたと言ってもいいでしょう。
また平安時代は『古今和歌集』や『枕草子』『源氏物語』など、数々の文学が花開いたことでも有名です。紀貫之、清少納言、紫式部らの文学者によって生み出された文学作品は、時代を超えて多くの人々に愛され、日本文学の基礎を築き上げました。
ドラマの中では貴族たちの優雅な生活が描かれていますが、平安時代には武士たちが大きな力を持ち始め、貴族たちの立場を脅かすようになっていました。時代の変化は確実に迫っていたのです。
今回の記事では、平安時代(中期から後期)の社会的変化に着目し、歴史の中心が貴族から武士に移った背景について見ていきたいと思います。
貴族から武士の時代へ
10世紀に入ると、律令国家体制が崩壊し、地方から武士が登場しました。
武士はもともと地方豪族や有力農民から発展したもので、朝廷の武官として勢力を拡大し、やがては武家政権(鎌倉幕府)を築くに至ります。
この新たな勢力である武士の登場に、朝廷(貴族)はどのように対応していくべきか、大きな課題に直面したのです。
先ほども述べたように、律令国家から王朝国家への移行は、文化的には大きく花開いた時代でもあります。
しかしながら、皇族や貴族(朝廷)の全盛期は終わりを告げ、武士が新たな力を持って登場することで、歴史は新たな局面を迎えたのです
納税システムの変化が武士の台頭を招く
10世紀に入ると、日本の徴税方法は大きく変わります。
かつての律令体制では、戸籍によって国民一人ひとりを把握し、人頭税を徴収していました。
しかし律令体制が崩壊したことにより、個々の農民を正確に把握することが難しくなったため、土地単位の課税へと変わりました。租(米)だけでなく、調(特産物)や庸(布)、雑瑤(地方労役)なども廃止され、税のシステムが大きく変わったのです。
また、天皇を中心とした中央集権体制を捨てて、地方の管理を国司に任せるようになります。「税さえきちんと納入されれば、地方の状況は問わない」という方針を取ったのです。
国司は地方で政治をせず、税率を自由に決め、その差額を自分の利益として懐に入れようになります。
この新しいシステムにより、国司の仕事はとても魅力的なものとなり、国司への希望者が殺到します。中央政府では賄賂や縁故が蔓延し、政治は腐敗していったのです。
朝廷の腐敗によって国司の管理が緩くなった結果、地方の治安は悪化していきます。
多くの人々が自衛のために武装し、小武士団(自警団)が形成されました。その中には、国司として赴任した中・下級貴族がそのまま土着し、大武士団の棟梁(リーダー)となるケースもありました。桓武平氏や清和源氏、奥州藤原氏などが当てはまります。
武士団は強い戦闘能力を持っていたため、朝廷は都市の警備(検非違使・滝口の武者)、また地方の治安維持(押領使・追捕使)、さらには皇族や貴族のボディガード(侍)として活用します。
武士の中には平将門や藤原純友のように、朝廷に反乱を起こす者もいました。
これらの反乱は「承平・天慶の乱(939年〜941年)」として知られています。
このような武士の反乱に朝廷はうまく対処できないため、他の武士に反乱の鎮圧を依頼するしか方法はなく、朝廷の武士に対する依存度は大きくなる一方でした。
武士の存在感が日増しに拡大することで、政治の中心は貴族から武士へと、徐々に交代していくことになります。
国際情勢に無関心な朝廷
10世紀の東アジアでは、歴史的な変動が数多くありましたが、日本は基本的に無反応でした。
中国では唐が滅び、そのあと宋(北宋)が建国されます。
朝鮮半島では新羅が滅び、高麗が建国。日本と友好国だった渤海が遼(契丹)によって滅ぼされました。
894年、菅原道真は遣唐使の停止を提案しています。「唐の衰退、航海の危険、朝廷の財政難、文化の吸収」などが理由として考えられますが、彼自身が中国に行きたくなかったことも影響しているかもしれません。
唐が滅んだ後、日本と宋の間では公的な使節は派遣されませんでしたが、私的な貿易や文化交流は続きました。
高麗との関係は新羅ほどの緊張関係はなかったですが、公的な交流はさほどありませんでした。遊牧民の国家である遼は危険視されたため、関わりを持たない方針が取られます。
上記のように東アジアでの激動に対して、日本の朝廷はほとんど反応を示さず、適切な対応をしませんでした。
朝廷内の出世争いや恋愛問題に忙しかったという事情もあってか、国際情勢に目を向ける余裕がなかったためと考えられます。
11世紀前半、案の定と言うべきか、女真族(刀伊)が九州北部を襲ってきます。
刀伊の入寇です。
朝廷は何もできず、代わりに地方武士(大宰府の藤原隆家など)によって撃退されました。女真族はのちに「満州族」とも呼ばれ、明治時代の日清戦争でも対戦した民族です。
周辺国との関係構築や対外的な危機管理において、朝廷の対応は不十分であったと言えるでしょう。
参考文献:伊藤賀一(2022)『世界一おもしろい 日本史の授業(改討版)』KADOKAWA
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