光る君へ

平安の女流歌人・大和宣旨の結婚生活はどうだった? 【光る君へ】

NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも楽しんでいますか?筆者も毎週欠かさず観ています。

本作には沢山の貴族たちが登場し、平安時代の王朝絵巻を彩っていますが、その一人である平惟仲(たいらの これなか)が気になりました。

公式サイトを見ていると、はじめは右大臣家の家司(けいし。執事)だったのに、いつしか公卿に出世していますね。

今回はそんな平惟仲の娘である大和宣旨(やまとのせんじ)を紹介。果たして彼女はどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

道長次女・藤原妍子(三条天皇中宮)に仕える

大和宣旨

三条天皇。画像:Wikipedia Public Domain

大和宣旨は生没年不詳、平惟仲藤原忠信女(ただのぶのむすめ)との間に生まれました。

成長すると三条天皇の中宮である藤原妍子(けんし/きよこ。藤原道長次女)に仕え、女官の最高職である宣旨に任じられます。

宣旨とは朝廷より承った宣旨を主君に取り次ぐ役で、いつしか女房の筆頭職となりました。

大和宣旨という女房名は、後夫である藤原義忠(のりただ)の官職・大和守から採ったのでしょう。

しかし義忠が大和守を兼任したのは長元9年(1036年)であるのに対して、主君である妍子は万寿4年(1027年)に崩御しています。

そのため義忠の官職に由来する女房名である場合、妍子に仕えていた現役当時には大和宣旨とは呼ばれていなかったと考えられるでしょう。

もしそうであるなら、彼女は平宣旨などと呼ばれていたのかも知れませんね。

女流歌人として活躍

大和宣旨

和歌を詠む大和宣旨(イメージ)

ともあれ妍子に仕えた大和宣旨は、主君の補佐はもちろんのこと、彼女のサロンに華を添えました。

こと和歌の才能に秀でており、『後拾遺和歌集』に3首が入首しています。

※以下の意訳については諸説あり。

550 涙川 流るゝみをと しらねばや
袖ばかりをば 人のとふらむ

【意訳】私が涙にくれていたことを知らない人々が、私の袖が濡れていたことをしきりに訊ねてくるのです。
【コメント】お察し下さい。そっとしておいて下さい。今の私に必要なのは、言葉よりも距離感です。

735 はるばると 野中にみゆる 忘れ水
たえまたえまを なげく頃かな

【意訳】あれから春が何度も来たのに、私は忘れ去られ、顧みられることもありません。すっかり音沙汰が絶えてしまったと、あの人は思い出してくれるでしょうか。

【コメント】まぁ期待は薄いと思います。過去のことは忘れて、次に行きましょう。

809 戀しさを 忍びもあへず 空蝉の
うつし心も なくなりにけり

【意訳】恋しさを耐え忍び、逢える日までは、と心を無にしてきました。しかし気づいてみると、なぜあんなに好きだったのかさえ忘れてしまいました。

【コメント】失恋というのはフラれるよりも、好きだった気持ちを失う方が辛い気がします。皆さんはどうですか?

大和宣旨の結婚歴・家庭事情は?

大和宣旨

大和宣旨の先夫・藤原道雅。歌川国貞『東錦絵百人一首』より

そんな大和宣旨は、はじめ藤原道雅(みちまさ。伊周の子)と結婚しますが離婚。藤原義忠と再婚しました。

道雅は後に「荒三位」と呼ばれた荒くれ者だったそうですから、まさかDVなどなければいいのですが……。

『尊卑分脈』によると、藤原道雅との間には観尊(かんぞん。僧侶)と上西門院女房(じょうさいもんいんにょうぼう。本名不詳)を、藤原義忠との間に藤原能成(よししげ)を生んでいます。

道雅の子供たちについて、母親の欄を見ると観尊は「中納言平惟仲女」、上西門院女房については母親が「大和宣旨」となっていますが、これは両者が別人物と解釈されているのでしょうか。

また当時に上西門院と称した女性の存在を調べたところ、よく分かりません。もしかしたら上東門院(じょうとうもんいん。藤原彰子)でしょうか。もし詳しい方がいらしたら、教えてください。

ちなみに『尊卑分脈』の記述が正しいならば、上西門院女房は母と共に義忠の妻(後拾遺作者左中弁義忠室)となっているようです。父親が違うとは言え、母と娘で同じ夫を持っているというのは、現代的感覚だと少し違和感が否めませんね。

大和宣旨・基本データ

生没:生没年不詳
両親:父親・平惟仲/母親・藤原忠信女
主君:藤原妍子(藤原道長次女、三条天皇中宮)
身分:宣旨
伴侶:藤原道雅(先夫)/藤原義忠(後夫)
子女:道雅との子…観尊、上西門院女房/義忠との子…藤原能成

終わりに

今回は平惟仲の娘である大和宣旨について紹介してきました。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原妍子の宣旨として彼女が登場するでしょうか。

登場するとしたら誰がキャスティングされるのか、今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 朝日新聞 編『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年12月
  • 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第2巻』国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991584/1/33
  • 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 入内から一気に没落…東宮妃となった藤原原子(道隆女)の末路 【光…
  2. 官僚の底辺とか言うな!平安貴族たちの激務を支えた官底とは 【光る…
  3. 紫式部が清少納言を嫌う理由は、夫をバカにされたから? 【光る君へ…
  4. 【光る君へ】 一条天皇(塩野瑛久)は『大鏡』にどう書かれているの…
  5. 【光る君へ】男児を産めない重圧…道長の四女・藤原威子(栢森舞輝)…
  6. 【光る君へ】 紫式部が生きた平安時代はどんな時代だったのか? …
  7. 娘は殺され妻は犯され…紫式部の異母弟・藤原惟通とは何者か 【光る…
  8. 【世界最古の女流小説家】 紫式部はどのような人物だったのか 「藤…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

アメリカはなぜ「銃所持」を認めているのか? 【市民の武装権】

今回の記事では「銃器の発展がもたらした政治体制の変化」に着目します。古代から現代までを時代順…

諸葛恪 〜性格の悪さで身を滅ぼした天才【諸葛瑾の息子で諸葛亮の甥】

名門 諸葛一族に生まれた天才三国志屈指の名門である諸葛一族は、それぞれ呉と蜀の重臣として…

フランス革命に散った王妃マリー・アントワネットの愛人・フェルセン伯爵のラブレター、解読に成功

報道によると2020年6月3日、フランス王妃マリー・アントワネット宛てに出された彼女の愛人・フェルセ…

榊原康政について調べてみた【文武に秀でた徳川四天王】

書も達者榊原康政(さかきばらやすまさ)は徳川家康に小姓として出仕し、後には酒井忠次、本多…

天正遣欧少年使節・帰国後の彼ら【戦国時代にヨーロッパに行った少年たち】

過酷な航海とヨーロッパ歴訪、そして帰国1582年(天正10年)2月20日。寒風吹きすさぶ…

アーカイブ

PAGE TOP