光る君へ

【光る君へ】 敦明親王(阿佐辰美)の悲劇… 道長の野望により前途を絶たれる

三条天皇の第一皇子
敦明親王(あつあきらしんのう)
阿佐 辰美(あさ・たつみ)

三条天皇の皇子。狩りが好きで、活発な性格。のちには東宮となるはずであるが、外戚が弱く後見がいない。我が孫を東宮にと望む道長の圧力にさらされることになる。

※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

居貞親王(三条天皇)と、藤原娍子の間に誕生した第一王子(父の即位後は皇子)・敦明親王(あつあきらしんのう)。

劇中では狩りを好む元気ハツラツな青年でしたが、この後、悲劇が彼を襲います。

今回は敦明親王の生涯をたどってみましょう。

後一条天皇(敦成親王)の春宮になる

敦明親王(阿佐辰美)の悲劇…

父・三条天皇。画像:Wikipedia Public Domain

敦明親王は、正暦5年(994年)5月9日に誕生しました。

兄弟には敦儀親王(あつよし)、敦平親王(あつひら)、当子内親王(とうし/まさこ)、禔子内親王(ていし/よしこ)、性信入道親王(しょうしん)、禎子内親王(ていし/さだこ)らがいます。

寛弘3年(1006年)11月に元服し、後に藤原延子(えんし/のぶこ。藤原顕光女)と結婚しました。

寛弘8年(1011年)に父・居貞親王が皇位を継承すると親王宣下を受けますが、この時点ではまだ春宮(皇太子)にはなれません。
それは、敦康親王(あつやす。一条天皇の第一皇子で生母は藤原定子)と、敦成親王(あつひら。同第二皇子で生母は藤原彰子)がいたからです。

順当に行けば敦康親王が春宮となるはずですが、自分の孫を皇位につけたい藤原道長は、敦成親王を春宮にゴリ押ししました。

かくして敦康親王は皇位継承候補から脱落。ひとまずは三条天皇&敦成親王体制が出来上がります。

さぁ、こうなれば自分の孫を皇位につけるまであと一歩。道長は三条天皇に対して、さぁ譲位しろ今だすぐだとばかりに圧力をかけ続けたのでした。

三条天皇は約5年にわたって粘り続けましたが、眼病を患っていることもあり、ついに譲位を決断します。

「……分かった。ただし条件がある」

譲位の条件とは、敦明親王を敦成親王(後一条天皇)の春宮にすること。道長はこれを快諾し、ついに念願どおり自分の孫を皇位につけたのでした。

まぁ、身体も悪かったし仕方あるまい……三条天皇は敦明親王に望みを託したのです。

春宮の座を辞退させられる

三条院の崩御を待って本性を現す藤原道長(イメージ)

しかし、道長がそんな約束を守るはずもありません。

三条院(上皇)が崩御すると道長は本性をあらわし、敦明親王に牙を剥いたのでした。

具体的には敦明親王に対して、春宮の座を辞退するように圧力をかけたのです。

敦明「おい、約束が違うではないか!」

道長「何をおっしゃる。私は院に対してあなたを春宮にするとは言ったが、その地位を永久に保証するとは言ってない!」

敦明「卑怯だぞ、恥を知れ!」

道長「何とでもおっしゃい。そもそもあなたは不行跡が多すぎる。とても皇位継承者に相応しいとは思えませんな。それに……」

敦明「それに?」

道長「あなたは今上陛下(後一条天皇)より14歳も御年長だ。陛下が寿命をまっとうされた場合、あなたの寿命はそれより早く尽きている可能性が高いでしょうな」

敦明「おのれ……!」

道長「このまま一生涯を春宮として終えるより、早く譲られた方が公益にも供するというもの。さぁご決断を!」

……かくして敦明親王は春宮の座を辞退。その座は敦良親王(あつなが。一条天皇の第三皇子で藤原彰子の次男)に譲られたのでした。

准太上天皇となるが……

春宮の座を譲らされ、失意の敦明親王(イメージ)

失意の敦明親王に対して、さすがの道長も何かフォローしないとまずいと思ったのでしょうか。

道長は敦明親王に対して小一条院の尊号を贈り、形式的には敬意を表します。

いわゆる准太上天皇としての地位を保証されたのですが、実際の扱いがそれなりだったのは言うまでもありません。

さらに道長は、敦明親王を篭絡して恨みを封じ込めるため、娘の藤原寛子(かんし/ひろこ。生母は道長側室・源明子)を嫁がせます。

この措置によって、先妃の藤原延子は捨てられた形となってしまいました。

あまりのショックで延子は急死、父の藤原顕光も失意の内に世を去ります。

「おのれ道長、この怨みを晴らさでおくものか!」

顕光と延子は怨霊となり、寛子を呪い殺すなど道長一族に祟りをなしたのでした。

この事件から、人々は顕光を悪霊左府(あくりょうさふ。左府は左大臣の意味)と呼んで、恐れたということです。

その後も周囲との確執を深め、暴力行為の応酬に明け暮れた敦明親王。これを理由に「皇位継承者として相応しくない」とする声もあったようですが、道長に媚びる周囲からの迫害もあり、一方的に敦明親王ばかりが悪いとは言いきれません。

しかし精魂尽き果てたのか、長暦2年(1038年)に出家。永承6年(1051年)1月8日に58歳で薨去したのでした。

終わりに

元気はつらつだった頃の敦明親王(イメージ)

今回は三条天皇の第一皇子・敦明親王の生涯を駆け足でたどってきました。

何かと暴力事件ばかり強調されがちですが、周囲からの迫害に対して抵抗する側面もあるため、一方的に非難するのは気の毒ではないでしょうか。

道長によって春宮の座を辞退させられ、妻まで捨てさせられた悔しさは、察するに余りあります。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、阿佐辰美の熱演に期待しましょう。頑張れ敦明親王!せめて道長に一矢報いて欲しいですね!

※参考文献:
倉本一宏『三条天皇 心にもあらでうき世に長らへば』ミネルヴァ書房、2010年7月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)

 

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「マカオのエッグタルトとその歴史」 アンドリュー・W・ストウの遺…
  2. 【光る君へ】 一条天皇の女御・藤原元子が父に勘当された理由は?
  3. 「偉かったのはどっち?」日本では『神と仏』 どちらが上位とされた…
  4. 石田三成は、なぜ「襲撃」を受けるほど嫌われたのか? 【三成襲撃事…
  5. ヨーロッパ人口の3分の1を死に追いやった恐怖の伝染病 「ペストが…
  6. 【正気か狂気か】 コロセウムで剣闘士となったローマ皇帝 コンモド…
  7. 【天下の要衝・大阪】その発祥の地とされる上町台地に残る「天王寺七…
  8. 木曽義仲の強すぎる便女・山吹御前の知られざる生涯 「巴御前だけで…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【犠牲者数250万人?】国が滅ぶほど過酷すぎた隋の暴君・煬帝の大運河工事とは

隋朝とは隋(ずい)は、中国史において幾つかの面で重要な役割を果たした王朝である。…

台湾の国民的ヒーロー!廖添丁の義賊伝説「TIAN DING 稀代兇賊の最期」

強きを挫いて弱きを助け、富める者から奪って貧しい者に分け与える。そんな台湾の義賊伝説が元にな…

【邪馬台国はどこにあった?】弥生時代について調べてみた

倭国、邪馬台国、卑弥呼、前方後円墳。弥生時代になるとよく耳にするワードが登場するようになる。…

フィリピンの激安LEDライト付き使い捨てライターの魅力 【現地のコスパ良すぎるライター】

フィリピンでは、近所のサリサリストアで「ライターをください」とだけ言うと、デフォルトで底部に…

【サンタの起源となった聖人】 聖ニコラウスの伝説 ~塩漬けにされた3人の幼子が蘇る

年末が近づくこの時期、世間はもうすっかりクリスマスムードだ。大人たちが日々忙しさに追…

アーカイブ

PAGE TOP