南北朝時代が幕を開ける切っ掛けとなったのは後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕運動であった。
腐敗した幕府から政治の実権を取り戻そうと戦った後醍醐天皇。幕府に仕えながらも、後醍醐天皇に協力し、やがては反旗を翻した足利尊氏。土豪という立場でありながら民衆の力を使い鎌倉幕府や足利尊氏と戦った楠木正成。
歴史に名を残した人々のなかにあって、あまり語られることがないものの、重要な役割を果たした武将がいた。
新田義貞(にったよしさだ)である。
新田義貞は、他の主要な人物に負けないほどの波乱万丈な人生を駆け抜けた。
その戦いの歴史は、楠木正成が幕府軍を撤退させた「 千早城の戦い」から始まった。
無位無官の当主
上野国新田荘(にったのしょう/現・群馬県太田市周辺)を治めていた新田氏の八代当主であった新田義貞は、本家とはいえ、その地位は低いものだった。
源氏の一門でありながら、北条家との関係も悪く、無位無官という武将である。
しかし、気性の荒い反面、義理や信仰心は厚く、領民からは慕われていたようである。領地も少ない中で寺の復興にも力を注ぎ、所領の一部を幕府に売却して資金に充てたのだが、記録には新田「貞義」と名前を間違えられるほどに知名度も扱いも低いものであった。
それでも、地元の長楽寺(ちょうらくじ)を再建するために、長楽寺を菩提寺とする有徳人(うとくにん=寺社への寄付を積極的に行う富裕層)に領地の一部を売却することで関係を築いた。
そこからは再建費用を寄進してもらう代わりに、新田氏が有徳人とその領地、そして長楽寺を警護するという交渉をまとめるなど、領地運営には秀でていたようだ。
しかも、その有徳人は北条氏と良好な間柄だったため、間接的に北条氏とのパイプを築くことにも成功している。
楠木正成と千早城の戦い
こうしてなんとか北条氏へ接近しようとする一方で、幕府への反発もあった。
時の執権である北条高時(ほうじょうたかとき)は、政務も省みずに歌や踊りばかりに興じ、農民や新田氏のような武将は重税に苦しめられていたからである。
そのようなときである。
後醍醐天皇の倒幕の挙兵に呼応して、各地で武士や土豪が反逆の狼煙を上げた。
いち早く後醍醐天皇のもとに駆けつけて信頼を得た楠木正成は、赤坂城の戦いに続いて河内国の千早城(現・大阪府)で8万の幕府軍と戦っていた。
そこに新田義貞も参戦したのである。
しかも当初は幕府の命令を受けて楠木軍を討伐するはずだったが、そのための莫大な資金をすぐに調達するよう幕府から催促されていたのだ。
ここに至って、義貞は討幕軍への参加を決意した。
倒幕への挙兵
千早城の戦いは篭城戦となったために約3ヶ月の長期戦となったが、ここで義貞は持病を理由に領地である新田まで兵を退いている。
本当に病気であれば、後醍醐天皇のいる京都あたりまで後退して療養するのが普通だろうが、地元にまで帰っているのは明らかにおかしい。
この背景には、この機会に北条氏を直接討てるようにと、天皇に「綸旨(命令)」を要請し、それを受け取っていたという説がある。
幕府を討つのであれば、当然ながら上野国のほうが近い。
事実、1333年5月、義貞は挙兵したのである。
この頃には南北朝時代の出来事を収めた軍記「太平記」にも義貞の名前が出るようになり、挙兵の際の兵はわずか150であったという。
北条氏の滅亡
しかし、鎌倉へ向けて進軍するうちにその数は徐々に増え、利根川を渡りいよいよ武蔵国(現・東京都)に入ろうかというときには、足利尊氏の嫡男である千寿王(義詮)とも合流し、最終的には義貞の軍勢は20万もの大軍となっていた。
その中核には早くから義貞に合流していた新田一族もおり、無名ながらいかに結束が強かったかが分かる。
鎌倉まで進軍した新田軍は三隊に分かれて攻撃するも、一度は失敗した。
翌々日には厳重な警戒態勢にありながら、見落とされていた干潮時の干潟を利用してこれを突破すると、一気に幕府の中枢を攻撃し、22日には北条高時が自害したことにより、鎌倉幕府を滅亡させた。
挙兵からわずか半月後のことであった。
鎌倉を落とした義貞は、後醍醐天皇に幕府打倒の知らせを送り、自らは各武将が提出する「幕府打倒の戦いに参加した証」となる書状に判を押し、後醍醐天皇により恩賞が与えられるのを待っていた。
相次ぐ裏切り
しかし、7月になるとそれまで鎌倉で待機していた武将たちが次々と京都へ上洛してしまったのである。
無官の義貞よりも、官位もあり家柄も良い足利尊氏のもとへと集っていったのだ。鎌倉の陥落よりも一足早く、尊氏が京都を制圧していたということもあり、尊氏に付いた方が得であると考えられた。
関東でも、義貞から尊氏の子である千寿王に乗り換えるものが相次いだ。
8月の上洛によって官位も役職も与えられたが、それも尊氏とは雲泥の差であった。
しかし尊氏が朝廷と決別するようになると、朝廷は義貞を担ぎ上げることにしたのである。楠木正成は後醍醐天皇の信頼が厚かったが、武家ではなく土豪の出身だった。そこで義貞に白羽の矢が立ったということだが、同時に、後醍醐天皇と楠木正成は義貞を捨て駒にしようとした可能性がある。
足利尊氏が京から西国へ退いた後に、正成は天皇に「新田義貞を殺し、その首を手土産に尊氏と和睦してはどうか。義貞には人望がない」とまで言っているのだ。
やがて、九州から東上してくる足利氏と摂津国湊川(現・兵庫県神戸市)で「湊川の戦い」を行うも敗戦してしまった。
その後 新田一族は、1336年10月に北陸方面に落ち延びる。
新田軍は北陸では順調とは言えなかったものの越前で勢力を盛り返したが、新田義貞は上洛を目指す途上での交戦により戦死した。(1338年閏7月)
新田義貞の生き方
新田義貞については、彼が凡人であったというよりも、同時代の主役たちが目立ちすぎていたといったほうがいいだろう。
後醍醐天皇は一度は転落するも幕府滅亡を成し遂げ、その後も南朝を開いて最後まで戦う姿勢を崩さなかった。
足利尊氏は鎌倉幕府の中枢から後醍醐天皇のために武勲を挙げ、九州まで逃げても戻ってきた。楠木正成は武家でなかったにも関わらず、後醍醐天皇の軍師的な立場までになったほどだ。彼らに比べては義貞の武勲も霞んでしまう。
何より、狡猾でなくては生き残れぬ乱世において、義貞は武士としての実直な生き方にこだわったために、蹴落とされたと考えるしかない。
参考文献 : 義貞の旗
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