鎌倉殿の13人

喧嘩っ早くて女好き?大河ドラマ「鎌倉殿の13人」和田義盛の憎めないエピソード3選

そろそろ年末も見えてきた今日このごろ、令和4年(2022年)放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も少しずつ話題にのぼり始めてきました。

主人公の北条義時(ほうじょう よしとき)をはじめ、鎌倉幕府の将軍を補佐する13人の御家人たちを中心とした政治抗争を描く作品として注目されています。

癖の強……もとい個性あふれる魅力的なキャラクターが多数登場する中で、是非とも皆さんのイチ推しを見つけて欲しいものです。

和田義盛。菊池容斎『前賢故実』より

さて、今回おすすめする1/13人は和田義盛(わだ よしもり)。喧嘩っ早くてお調子者、そんなところが憎めないエピソードをピックアップしたいと思います。

生粋の武断派、時代の流れに淘汰される

まずは和田義盛の、ごくざっくりとしたプロフィールから。

和田義盛は平安末期の久安3年(1147年)、相模国(現:神奈川県)の名族である三浦(みうら)一門・杉本義宗(すぎもと よしむね)の子として誕生。三浦郡和田郷を領したことから、その地名を苗字としました。

治承4年(1180年)8月に挙兵した源頼朝(みなもとの よりとも)公に呼応して兵を挙げたものの、合流する前に石橋山の合戦で頼朝公が蹴散らされてしまい、相模湾海上へ逃れたところようやく合流。

以降、数々の武勲を立てて頼朝政権の柱石となり、御家人たちを束ねて軍事を総括する侍所別当(さむらいどころべっとう。侍別当)を任せられました。

頼朝公亡き後も、鎌倉幕府を支え続けた。豊原国周「和田義盛 源実朝公」より

頼朝公の死後はご存じ「鎌倉殿の13人(合議制)」の一人として幕政に参加するも、北条義時との政争に後れをとり、義時の挑発に耐えかねて建暦3年(1213年)5月2日に挙兵(和田の乱、和田合戦)、翌5月3日に敗死してしまいます。

総じて脳筋の武断派で、永年の武功によって重鎮となっていたものの政治的な駆け引きには疎く、そこが命取りとなりました。

頼朝公の死によって幕府草創期の熱狂が冷め、システム化が進みつつあった時代の流れに淘汰されていった一人と言えるでしょう。

和田義盛のおすすめエピソード3選

さて、そんな和田義盛ですが、これがまた実に憎めないヤツでして、例えば石橋山から落ち延びてきた頼朝公に、こんなことを言っています。

「なぁ大将、アンタが天下ァ獲ったら、俺を侍別当にしてくれよ(意訳)」

いやいや、命からがら逃げおおせたばかりの頼朝公にそんなことを言っても、約束なんてできるはずもないでしょうに……しかしまぁ、義盛なりの励ましだったのかも知れませんね。

何だか、キューバ革命時のフィデル・カストロが「(部隊はほぼ全滅したが)俺さえ生きて上陸できれば、革命は成功したも同然だ!」と呵々大笑したエピソードを彷彿とさせます。

「そうとも、佐(すけ。頼朝公の通称)殿さえ生きていれば勝ったも同然!平家の連中め、今の内に笑っているがいいさ!」

石橋山の惨敗くらいで力落としには及ばない……そんな義盛たちに励まされた頼朝公はご存じの通り華麗にリベンジを達成。鎌倉入りを果たした頼朝公は、約束どおり義盛を侍所別当に任じたのでした。

歌川芳員「源平英雄競 和田左エ門尉義盛」

「ありがてぇ、冗談も言ってみるモンだな……大将、俺ぁ一所懸命にやるぜ!」

「うむ。頼んだぞ……」

とまぁそんな具合で奉公に励んだ義盛でしたが、一所懸命が過ぎたのか、京都への上洛に際して、盛大にやらかします。

時は建久6年(1195年)5月15日、京都に来ていた御家人の三浦義澄(みうら よしずみ)と足利藤五郎信綱(あしかが とうごろうのぶつな。足利五郎)が喧嘩して、それぞれの一族が大集結。今にも合戦が始まりかねない一触即発の状態に陥りました。

「アイツら……朝廷に対して我らが存在感をアピールする晴れの舞台で何やらかしてくれちゃってンだよ!」

「まったく、困った連中ですな」

「すぐに仲裁させねば……おい、和田はおるか!」

「それが……三浦(自分の出身一族)に加勢するべく、喧嘩の助太刀に行ってしまいました

「あのバカ野郎!御家人の総元締め(侍所別当)のくせして何をやってンだよ!」

仕方がないので、頼朝公は義盛の補佐として侍所所司(しょし)につけていた梶原景時(かじわらの かげとき)を現場に急行させます。

……そんな事があったため、次第に侍所の実権は景時に移ってしまったのでした。頼朝公にしてみても、文武に長けた景時の方が仕事もスムーズだったのでしょう。

それと時間は若干前後するのですが、頼朝公の従弟でライバル・木曾義仲(きそ よしなか。源義仲)が敗れ去り、その便女(びんじょ。女性の召使い)である巴御前(ともえごぜん)を捕らえられました。

巴御前の女傑ぶりに一目惚れする和田義盛。楊洲周延「和田義盛 内田家義 巴御前」より

「大将、この女ぁ俺に下せぇよ。コイツにガキを生ませたら、さぞかし豪傑になるだろうぜ!」

当然のごとく巴の意思は完全に無視され、果たして生まれたのが後の朝比奈三郎義秀(あさひな さぶろうよしひで)……後に大暴れするのですが、これは義秀の生年など辻褄が合わないため、後世の創作と考えられています。

ただし、侍所には捕虜を収容する施設があったため、もし巴御前が捕らわれていれば尋問する機会などあったでしょうし、そこから「義秀ほどの豪傑は、きっと巴御前のような女傑が産んだに違いない」などと、想像が膨らんでいったのでしょう。

しかし史実性はともかくとして、喧嘩っ早くて能天気、かつ女好きというキャラクターは、何となく義盛らしい気がしないでもありません。

終わりに

ごく私後で恐縮ながら、子供の頃に通っていた塾の先生が「自分は和田義盛の末裔だ」と言っていたことがありました。

それまで武士と言ったら戦国武将で、源平合戦(平安鎌倉期)など、何だかつまらなく思っていましたが、いざ知ってみると、鎌倉武士も負けず劣らずの個性派揃い。

大暴れする朝比奈三郎義秀。歌川豊国「和田合戦図」より

興味の視野を広げてくれた武将の一人として、昨日のことのように憶えています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では横田栄司さんが演じる予定となっていますが、彼がどんな義盛を魅せてくれるのか、今から楽しみですね!

※参考文献:

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【鎌倉殿の13人】幕命よりも身内の絆…宇都宮頼綱を守った小山朝政…
  2. 鎌倉時代の武家女性は、予想以上に社会的地位が高かった?
  3. もう顔も見たくない!源実朝の怒りをなだめた北条義時のアドバイス【…
  4. いざ上洛!承久の乱で「俺たちの北条泰時」と共に出陣した“俺たち”…
  5. 二刀流で一騎討ち!『平家物語』が伝える「死神」源行家の意外な武勇…
  6. 月食が深めた二人の絆。源実朝を大歓迎する北条義時のエピソード【鎌…
  7. 平家討伐「第一の矢」を放った佐々木経高。北条泰時が見届けたその壮…
  8. 矢部禅尼は、北条政子に次ぐゴットマーザーか? 「三浦氏の血を存続…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【鎌倉殿の13人】山口馬木也が熱演!山内首藤経俊の強烈なキャラと悪運の強さ

乳兄弟(ちきょうだい)……あまり耳慣れない言葉ですが、これは乳母(うば、めのと)を介した兄弟、言うな…

世界初 「木造の人工衛星」 2024年2月に打ち上げ 【日本人元宇宙飛行士発案】

日本人元宇宙飛行士が発案した「木造の人工衛星」NASAと日本のJAXA(宇宙航空研究開発機構…

『古代中国の流刑罪』罪人たちが送られた過酷すぎる死地とは? 〜零下40度

流刑は、古代中国における刑罰の一つであり、罪を犯した者を辺境の地へ送り、労役に従事させるものであった…

傾国の美女・楊貴妃 「いびきが大きく体臭がキツかった」

楊貴妃とは?中国四大美女の一人として知られる楊貴妃(ようきひ)は、中国唐代、玄宗皇帝の寵…

島津斉彬と西郷隆盛の出会いについて調べてみた

島津斉彬(なりあきら)が第11代藩主に就任したのは、嘉永4年(1851年)2月のことであった。彼が4…

アーカイブ

PAGE TOP