江戸時代

江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」

江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」

イメージ画像「松之廊下刃傷事件」

江戸城での刃傷事件と言えば浅野内匠頭吉良上野介の刃傷松之大廊下での「忠臣蔵 赤穂事件」が有名であるが、実は赤穂事件を含め江戸城内では刃傷事件は7件も起きている。(※9件・11件という説もある)
江戸城内は帯刀禁止(太刀)であり城内で所持できるのは脇差だけなので、城内において短い脇差を使った刃傷沙汰が起こっている。

今回は春日局が関係していた、江戸城での最初の刃傷事件と呼ばれる「豊島明重(としまあきしげ)事件」について検証してみた。

豊島明重とは

豊島明重(とよしまあきしげ)は、文禄3年(1594年)に徳川家康に家臣として取り立てられ2代将軍・秀忠の小姓となり、武蔵国久良岐郡富岡庄(現在の神奈川県横浜市金沢区)を与えられ、大坂の陣に従軍し、元和3年(1617年)には御目付役1,700石を賜った旗本である。

明重は別名であり、信満(のぶみつ)という諱もあるが、ここでは一般的に知られる「明重」と記させていただく。
加害者が豊島明重で、被害者となったのは横須賀藩主で老中職にもついた井上正就(いのうえただなり)である。

被害者・井上正就とは

井上正就は徳川家康に仕えた井上清秀の三男として生まれ、母が2代将軍・秀忠の乳母を務めたために秀忠の側に仕え、慶長20年(1615年)に小姓組番頭に就任した。

大坂の陣にも参陣し順調に出世した正就は、元和8年(1622年)には横須賀藩主となり5万2,500石を賜り、譜代大名としてトップである老中職に就任した人物である。

事件が起きるまで

豊島明重井上正就は年が近く、秀忠の側に仕えていたことからお互いの屋敷を行き来しては酒を酌み交わし、友情を深めていた大の仲良しであった。
ある時、明重はいつものように正就の屋敷を訪ねた。その場に正就の嫡男・正利が挨拶に来たことから話題は正利の嫁取りの話となった。

実はこの頃、明重は正利にちょうどお似合いの年頃の娘を持つ友人がいて、そちらの娘の縁談も思案していた時であったのだ。
その友人は大坂町奉行の島田直時で、その娘はなかなかの美人で身分的にも釣り合いが取れると明重は正就に話をした。
正就もこの話に大乗り気で、話はとんとん拍子に進み明重は仲人を頼まれる。

ところが、この話が周囲に知れ渡るようになると、そこに「待った」をかける人物が現れた。
その人物とは大奥を牛耳り老中よりも権勢をふるう、3代将軍・家光の乳母「春日局」である。

江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」

春日局(斎藤福)

春日局は老中と大奥のつながりを強くするため、正就の息子の正室には大奥派閥に浸かった者の身内から選びたいと常々考えていたのだ。
しかも、もうすでに正利の正室候補として出羽山形藩主・鳥居忠政の娘を選んでいたのである。

やがて春日局から正就のもとに「上意」と称して正式に縁談の話が持ち込まれると、さすがの正就もこの話は断ることができないとして、明重が仲介した縁談の話を反故にして春日局の縁談の方に決めてしまった。
しかも、なんと明重が島田直時の後任として大坂町奉行になる予定だった話まで無くなってしまった。
これでは、明重の面目は丸潰れとなってしまう。

そもそも明重は剛直な性格で「武士道とは死ぬことなり」を地で行くような人物だった。
この一件を「春日局の持ってきた話ならしょうがない」と簡単に受け流せるような人物ではなかったのである。

刃傷事件

明重は正就を許せなかった。
寛永5年(1628年)8月10日、明重は江戸城内で正就の登城を待っていた。
明重はこの前日の夜に妻に自分の決意を語っていたが、いつもと変わらぬ様子で登城したという。

そして江戸城の西の丸の廊下にて、すれ違い様に「武士に二言はないはずだ!」と脇差を抜いて正就に斬りかかった。
逃げる正就に対し、明重の2太刀目の斬り込みが見事に正就をとらえ、正就はその場で息絶えてしまった。

二人を止めようと慌てて駆け寄った青木義精が背後から組みかかったが、明重は脇差を自らの腹に一気に突き刺して自害した。
その脇差の刃は明重の背中を突き抜け、なんと青木義精の腹部にまで到達したため、青木にも致命傷を負わせてしまった。

結果的には、正就・明重と巻き添えを食らった青木の3人が絶命したのであった。

処罰

こうして江戸城で最初の刃傷事件が発生した。
しかし幕府は事実を隠蔽した。明重をその場で取り抑えて翌8月11日に改易の処分とした後に切腹したことにしてしまった。
そして明重の嫡男・吉継のみが切腹となり、一族にはお咎めなしとなった。

しかしこの事件の3か月後、明重に娘の縁談の話をしたことに責任を感じた島田直時も自害してしまった。
結局5人の命が犠牲になる大事件となってしまったのである。

忠臣蔵でよく耳にするのは「喧嘩両成敗」という言葉だが、この当時はまだ戦国時代の気質というものが色濃く残っていた時代でもあった。
老中・酒井忠勝は「遺恨をそのままにしないのも武士道の一つ、これを厳罰にしたならば武士の意地が廃れて百姓・町人と同じということになってしまう」と、むしろ明重の行動を賞賛し、寛大な処置をするようにと進言したという。

明重は御三家の紀州藩主・徳川頼宣とかねてから交流があり、頼宣は手紙で明重の死を悼んでいた。明重の遺児たちは後に紀州藩に仕え、徳川吉宗が将軍になった際には御家人となった。

実は?

実は「豊島重明事件」が起きる前の寛永4年(1627年)11月6日に、小姓組・楢村孫九郎木造三左衛門鈴木宗右衛門を襲った事件が起きた。
江戸城名で一緒に勤めていたものの喧嘩が原因で楢村孫九郎が抜刀したが、木造三左衛門と鈴木宗右衛門は逃げて無事だった。しかし止めに入った別の2人が大怪我を負い、その内の1人が落命している。

襲った楢村孫九郎は切腹となったが、逃げた木造三左衛門と鈴木宗右衛門は「卑怯」として家名断絶となっている。

武闘派で知られる小姓組内で起きた出来事だったが「逃げた」という点で余り表には出ることもなく、「豊島重明事件」が殿中での最初の事件だとされている。

おわりに

江戸城内で最初の刃傷事件の裏には、老中と大奥の関係性を強めようとした「春日局」がいた。

この後、江戸城内で刃傷事件は6回も起きている。最初の刃傷事件は豊島明重の「武士の一分」がもたらした事件であった。

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 11月 29日

    春日局こわー

    1
    0
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