江戸時代

地図とともに見る幕末の江戸

徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、政治の中心は250年以上も江戸が担っていた。

家康が関東に封じられたのは、豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされた天正18年(1590年)のこと。当時の江戸は葦の原が広がる寒村だったという。さらに旧来より建っていた江戸城はすでに老朽化しており、とても粗末であった。

幕藩体制崩壊の兆し

桜田門外の変

【※江戸時代、薩摩藩の上屋敷は品川に近い高輪にあった】

慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸が幕府の所在地になると、町の様相は一変する。

江戸に屋敷を構える大名やその家族、さらには大名の家臣と家族、そして徳川氏に仕える旗本や御家人といった武士が多く居住するようになった。同時に町人も集められたため、急速に発展したのだ。そして、18世紀初頭には人口が百万人を突破している。これは一説によると世界一の巨大都市だったとされる。18世紀末から19世紀初頭にかけては、それまで上方が中心であった文化の面でも、江戸の地位が向上していった。

だが、一方で幕藩体制崩壊の兆しは18世紀半ばにはすでに現れていた。それは後世から見ると、頻発する百姓一揆や政治の弛緩などから予測することができる。しかし、当時を生きていた人々が肌で感じるほど露わなものではなかった。やはり体制を大きく揺り動かしたのは嘉永6年(1853年)6月のペリー来航だろう。

諮問政策

【※ペリー来航時の老中・阿倍正弘 wikiより】

まさに泰平の眠りを覚ますこの衝撃的な出来事は、それまでも潜伏していたさまざまな政治の弱点をさらけ出してしまったのである。

実はペリーの来航から艦隊が浦賀沖を退去するまでの10日間、江戸市中は異様な緊張状態に置かれていた。今にも江戸湾奥まで米艦が侵入し、大砲を放つという流言が飛び交ったほどである。

その一方、巨大な軍艦をひと目見ようと沿岸は怖いもの見たさの江戸っ子で埋め尽くされ、それを目当ての屋台まで繰り出す騒ぎも起きている。幕府は流言の類を厳しく禁じたが、アメリカ使節に対しては明確な答えを出すことができなかった。

結局、アメリカからの開国要求に対し、時の老中・阿倍正弘が用いた策は「幕閣だけではなく、外様を含む諸大名、さらには庶民からも意見を求める諮問政策」であった。それでも納得できる案は得られず、開国に関する返答はうやむやにすることに決まる。それまでの幕府政治の習例を破った諮問政策は後に大きな意味を持つことになってしまう。

桜田門外の変

【※桜田門】

徳川幕府が開かれて以来、ずっと幕府による専制政治が続いていたのだが、ペリー来航がその慣例を崩した。その結果、政治の中心が江戸から京都へと移っていったのである。それを象徴するような出来事が「桜田門外の変」だ。幕閣の最高責任者である井伊直弼が登城中に水戸と薩摩の脱藩藩士に殺害された前代未聞の事件である。

この事件の要因は、井伊が攘夷派志士に行っていた徹底した弾圧に対する不満、それに天皇の勅許を得ずに外国と通商条約を結んだことといわれている。事件以後、幕府は朝廷と足並みを揃える公武合体策を取り入れた。そのため、京都の政治的存在が大きくなっていったのだ。

京都を舞台に佐幕派と尊王攘夷派が激しい抗争を繰り広げていた時、江戸の周辺では外国人相手の事件が頻発した。万延元年12月4日(1861年1月14日)、駐日アメリカ総領事ハリスの通訳を務めていたヒュースケンが現在の東麻布付近で攘夷派の薩摩藩士に殺害される。

外国人との摩擦

【※第一次東禅寺事件。イラストレイテド・ロンドン・ニュースより】

そして、文久元年(1861年)5月28日には、高輪の東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃。書記官のローレンス・オリファントらが乗馬用のムチで反撃したが負傷した。さらに文久2年5月29日には同じ東禅寺を警備していた松本藩士がイギリス兵2名を惨殺している。その処分がまだ片付かない8月21日、武蔵国生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)で、島津久光の行列に騎馬で乱入したイギリス人が藩士に斬られ、1人が死亡、2名が重傷を負う「生麦事件」が勃発した。

江戸が再びクローズアップされたのは、戊辰戦争が始まり新政府軍が江戸に迫ったときである。江戸の町を戦禍から救うため、西郷隆盛と勝海舟が顔を合わせたのは、田町にあった薩摩藩蔵屋敷だ。さらに上野戦争の跡地などが当時の動乱を物語る。面影は少ないが、訊ねてみる価値は大きい。

日本の首都はどこに?

【※イギリス公使館が置かれた東禅寺付近】

慶応4年(1868年)4月24日、東征軍の軍政下に置かれていた江戸で開府事務が始まった。そして、同年9月3日に江戸府は東京府と改称される。明治2年(1869年)4月8日、朱引きした町内地を人口1万人で1区とし、それを番組と呼んだ。そして、市街地内には50番組が置かれるようになった。

明治4年(1871年)4月になると旧町を4ないし5、または旧村を7ないし8集めて1区とする区分けに変更して番組は廃止された。この年には廃藩置県も行われ、東京府は京都府、大阪府とともに三府のひとつに数えられるようになる。そして、三府は首都、またはその代替地とされた。

実はこの制度は現在まで残っており、東京を正式な首都と定めた法律はない。事実上、東京が首都となっているが、今でも京都を首都とする説もある。

最後に

幕末になり、京都で尊皇攘夷派の志士が治安を悪化させたように、江戸においても激しい攘夷運動が見られた。それは、時の老中暗殺という事態にまで拡大し、決して江戸の町の治安が良かったわけではないことを意味している。

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