NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第11回「許されざる嘘」では、若き英雄・義円(演:成河)が戦乱の徒花と散ってしまいました。
義円を死地へとそそのかした源義経(演:菅田将暉)の嘘も大概ですが、いざ戦場で彼を見捨てた叔父・源行家(演:杉本哲太)の無責任ぶりは目も当てられません。
こんな具合に行家は、自らの野望を果たすべく源氏一族を次々と渡り歩いて利用し、諍いの火種をばらまき続けます。
そんな叔父を源頼朝(演:大泉洋)は「獅子身中の虫(獅子の身にたかる寄生虫)」と呼んで蔑むのですが、大河ドラマではどのように立ち回るのでしょうか。
そこで今回は、源行家(みなもとの ゆきいえ)を紹介。彼の生き様を、たどって行きたいと思います。
挙兵前夜
源行家は源為義(ためよし)の十男として誕生しました。その生年には諸説あり、永治年間から康治年間(1141~1144年)と言われています。
頼朝の叔父に当たりますが、頼朝が久安3年(1147年)生まれなので、ほぼ同年代ですね。
同母姉(たつたはらの女房、後に鳥居禅尼)が熊野新宮別当の行範(ぎょうはん。後に熊野別当)に嫁いだ縁から新宮に住み、新宮十郎義盛(しんぐう じゅうろうよしもり)と名乗ります。
平治の乱(平治元年~永暦元年・1160年)に際しては異母兄・源義朝(よしとも)に従って戦いますが敗れ、熊野へ逃げ帰りました。
それから20年が経った治承4年(1180年)。源頼政(演:品川徹)に召し出され、以仁王(演:木村昴)の挙兵に呼応するよう、全国各地の源氏残党へ伝える役目を買って出ます。
「畏れ多くも以仁王殿下の御令旨である!控えい、控えーいっ!」
蔵人の官職を授かった十郎はこの時点で行家と改名。殿下の令旨を託されて得意満面の行家は、それはもうあちこちで威張り散らしたことでしょう。
虎の威を借る狐とはまさにこのこと、あまりに仰々しかったせいか『平家物語』では行家が原因で挙兵計画がバレてしまったとも言われています。
いざ挙兵!したものの……
果たして以仁王の挙兵は失敗。源頼政も自害して果てますが、行家は逃亡。伊豆で挙兵した頼朝とは別に挙兵し、尾張・三河国(現:愛知県)に勢力を伸ばしました。
「我こそが源氏の棟梁……頼朝ごときの下風に立つまいぞ!」
頼朝の挙兵に駆けつけようとしていた義円をたらし込んで仲間に加え、彼を広告塔として兵を集めた行家は、平家の軍勢に合戦を挑みます。
「(富士川の合戦で)水鳥の羽音に驚いて逃げたような連中など、恐るに足りぬわ!」
しかし結果は惨敗。養和元年(1181年)墨俣川の合戦で義円を喪い、続く矢作川の合戦でも撃破されてしまいました。
頼朝「……で、逃げて来たんですか(……義円を見捨てて)」
命からがら鎌倉まで落ち延びた行家は相模国松田(現:神奈川県松田町)に住み着きます。
行家「再起を期するべく兵を集めたい。兵を養うために所領を分けて欲しい」
頼朝「居候の分際で、厚かましいにもほどがある!」
という訳で頼朝と険悪になった行家は脱走して木曾義仲(演:青木崇高)の元へ走りました。これが元で、頼朝と義仲は対立することに。
にらみ合いが続いた寿永2年(1183年)3月。義仲は行家の代わりとばかり、嫡男の木曾義高(演:市川染五郎)を鎌倉に婿入りさせることで和睦します。
義仲と組んで上洛を果たすも……
これで後顧の憂い≒頼朝に攻められる危険性はなくなった、と義仲は北陸道から京都へ攻め上がりました。行家もその威を借りてデカい顔をしていたことでしょう。
果たして京都から平家を追い払い、上洛を果たした義仲と行家は、後白河法皇(演:西田敏行)の前で序列を争いながら拝謁します。
その様子を見ていた公家たちは、二人を取るに足らぬ者と嘲り笑いました。
平家追討の勲功は頼朝が第一位、義仲が第二位。そして行家は第三と評価され、従五位下の位階と備後守の官職を授かります。
行家「一緒に上洛を果たしたのに、木曾殿と差があるのはおかしい!」
ゴネにゴネた行家は数日後、備後守から備前守へ鞍替え(遷任)されたとのことです。義仲の武力を背景にさんざん脅しでもしたのでしょうか。
さて。上洛当初こそ平家討伐の英雄として歓迎された義仲ですが、将兵ともに生来の粗暴さで人々から嫌われていきました。
一方の行家は口の巧さと近国(京都の近く)育ちの教養で後白河法皇に取り入ります。
そんな態度が癪に障ったのか、今度は義仲とも険悪になってしまった行家は平家討伐の名目で京都から脱出。
行家「まったく、叔父を敬わぬ不届き者め……これだから田舎者は困る。ここは一つ独自に武功を立てて、誰が源氏の棟梁にふさわしいか見せてやろう」
と張り切ったものの、寿永2年(1183年)11月の室山合戦ではまたしても平家に敗北。河内国(現:大阪府南東部)の長野城へ逃げ込みました。
そこへ追い討ちとばかり義仲の軍勢が攻め込んで来たため、たまらず紀伊国(現:和歌山県)へと逃げ出します。つくづく軍才には恵まれなかったようです。
義仲が滅亡。晴れて京都に復帰するも……
絶体絶命のピンチに震え上がっていた行家でしたが、寿永3年(1184年)1月に義仲が源範頼(演:迫田孝也)・源義経らに討ち取られると木曾勢は崩壊。
行家「ふぅ。やれやれ助かった……」
改元されて元暦元年(1184年)2月、久しぶりに京都へ帰ったのでした。しかし、これで心を入れ替えて、頼朝と力を合わせるような行家ではありません。
行家「我は京を守るゆえ、そなたらは平家を追討せよ!」
範頼(今まで追われていたくせに、いったい何様だよ……)
果たして範頼・義経たちの活躍によって平家は滅び去りましたが、行家は鎌倉へ帰参することなく、河内・和泉国(現:大阪府南部)で独立状態を保ちます。
頼朝「あの叔父は生かしておくとロクなことがない……討つべし!」
文治元年(1185年)8月、頼朝は義経に対して行家を討つよう命じました。しかし義経は平家討伐の恩賞など不満を抱えており、まんまと丸め込まれる結果に。
行家「鎌倉、討つべし!」
義経「討つべし、討つべし!」
二人は後白河法皇に頼朝追討の院宣をねだったものの逆に頼朝から睨まれ、11月3日には都を追われてしまいます。
奥州へ逃げる義経たちとはぐれてしまった行家は和泉国日根郡近木郷(現:大阪府貝塚市)に潜伏。日向権守清実(ひゅうがごんのかみ きよざね)に匿われました。
しかし文治2年(1186年)5月、地元民に密告されて北条時定(ほうじょう ときさだ。時政の弟?)らに捕らわれてしまいます。
行家「待て、話せば解る!」
時定「もうわぬしの舌には誑かされぬぞ!」
かくして文治2年(1186年)5月12日、行家は長男の源光家(みついえ)・次男の源行頼(ゆきより)と共に山城国赤井河原(現:京都市伏見区)で斬首されたのでした。
終わりに
源義朝(敗死)⇒以仁王(敗死)⇒独立(敗北。義円討死)⇒源頼朝(不満で脱走)⇒木曾義仲(決別、敗死)⇒源義経(そそのかされ、滅亡)
以上、源行家の生涯をたどって来ました。それにしても挙兵以降、あちこち渡り歩いては行く先々を破滅させていますね。
節操がないと言える反面、よくぞここまで人を誑(たら)し込んだとも言えるでしょう。この才能を、もっと建設的に活かせなかったものでしょうか。
いずれにしても「鎌倉殿の13人」では行家がどのように描かれるのか、それを杉本哲太さんがどう演じ魅せてくれるのか。これからも楽しみですね!
※参考文献:
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年2月
- 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年6月
- 阪本敏行『熊野三山と熊野別当』清文堂、2005年8月
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