木曽義仲(源義仲)は、源頼朝との同族争いを避け、北陸を抑え、俱利伽羅峠の戦いでは10万の平氏軍に大勝利。
平氏を西へ追いやり破竹の勢いで無血入京した木曽義仲は、まさに英雄であった。
今回は前編に引き続き、木曽義仲についての後編である。
皇位継承に介入
後白河法皇は、天皇と三種の神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。
やむを得ず都に残っている高倉上皇の2人の皇子、三の宮・四の宮のいずれかを擁立することになった。
しかし義仲は「今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはず、以仁王の系統こそ正統な皇統」として北陸宮を即位させるように朝廷に申し立てたのである。
しかし天皇の皇子が2人もいるのに、それを無視して王の子に過ぎない北陸宮を即位させるという提案を朝廷が受け入れるはずもなかった。
皇族や貴族たちは武士が皇位継承問題に介入してくること自体が不快であり、山村で育った義仲は平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い「粗野な人物」と疎まれてしまった。
8月20日、朝廷内では四の宮が次期天皇に即位する践祚が決まる。
また、義仲は京都の治安回復にも期日を要してしまう。飢饉で食糧事情が極端に悪化した都に遠征で疲れ切った義仲の大軍が居座ったために、なんと義仲軍による都やその周辺での略奪行為が横行してしまったのである。
9月19日、義仲は後白河法皇に呼び出され「天下静ならず、又平氏放逸、毎事不便なり」と責められた。
立場の悪化を自覚した義仲は平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自らの剣を与えて出陣させた。
義仲は、失った信頼の回復と兵糧の確保のために戦果を挙げなければならなかったので、腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国に向かった。
後白河法皇を幽閉
義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に鎌倉の頼朝から朝廷を喜ばせる内容の申状が届く。
後白河法皇は頼朝を赦免し、10月14日に「寿永二年十月宣旨」を下して東海・東山小両道諸国の事実上の支配権を与えた。
これは当初、反乱軍とみなされていた頼朝率いる鎌倉政権が朝廷から公式に認められたことを意味した。
一方義仲は10月1日の「水鳥の戦い」で平氏軍に惨敗し、有力な武将たちを失っていた。
そのような状況の中、義仲は「頼朝の弟が大将となり数万の兵を率いて上洛する」という情報を耳にする。
自分たちが官軍だと思っていた義仲はそれに驚き、平氏軍との戦いを切り上げて10月15日に少数の軍勢で急ぎ帰京した。
10月20日、義仲は「頼朝の上洛を促したこと」「頼朝に宣旨を下したこと」を生涯の遺恨だとして、後白河法皇に激烈な抗議をした。
義仲は頼朝追討の宣旨ないし、御教書の発給と志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。
義仲は10月19日、法皇を奉じて関東に出陣という案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命を下したが、もう誰も義仲の言うことを聞かなかった。
ついに源義経率いる軍が不和の関にまで達し、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。
一方、後白河法皇は頼朝軍入京間近の報に力を得て、義仲を京都から放逐するため戦力の増強を図り義仲との対立を深める。
11月19日、追い詰められた義仲は後白河法皇派を襲撃し、なんと法皇を捕縛して幽閉してしまった。
義仲は朝廷を牛耳り全権を把握し、形式的に官軍の体裁を整えたのである。
木曽義仲の最期
寿永3年(1184年)1月6日、頼朝の弟・範頼と義経が率いる数万の兵が京都に近づいた。
義仲は1月15日に自らを征東大将軍に任命させ、平氏との和睦交渉や法皇を伴っての北国下向を模索したが、鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。
法皇の幽閉などで人望を失い、義仲に付き従う兵はほとんどないまま、1月20日に両軍は「宇治川の戦い」で激突した。
義経軍は25,000、義仲軍は400と圧倒的不利な状況であった。
義経軍と義仲軍は激戦となり、義仲軍は奮戦するも遂に敗れ、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かう。
義経は自ら数騎を率いて追撃し、院御所門前で義仲を追い払い、法皇の確保に成功する。
後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は、瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平と合流するために瀬田に向かった。
今井兼平は、宇治での義仲軍敗報を知って退却し、粟津(現在の滋賀県大津市)で義仲と合流する。
義仲は北陸への脱出を図るが、そこへ範頼軍が襲いかかった。
義仲軍は奮戦するが次々と討たれ、数騎にまで討ち減らされてしまう。
義仲は今井兼平に共に最後まで戦うと言い募るも、兼平に「武将は最期が大事だ」と説得され、自害するために松原へ向かった。
しかし、馬の脚が取られて身動きができないところを狙われて顔面に矢を受けて討死する。享年31であった。
主君を失った兼平は「何のために戦うのか」と問い、太刀を口に入れて貫き自害した。
巴御前は、鎌倉殿の13人では頼朝軍に引き取られる形で描かれているが、「平家物語」では最後の7騎までは義仲と共にいたが、その後は消息不明となっている。
おわりに
木曽義仲は武勇には優れていたが、幼くして山村で過ごしたために礼節や政治感覚に欠けていた。
未熟なまま勢いだけで入京した実直な義仲に対し、伊豆に流されるまで京都に住んでいた源頼朝は、朝廷の怪物・後白河法皇と上手く渡り合えた。
この差が、同じ源氏一族で明暗を分けることになったのである。
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