源頼朝(みなもとの よりとも)が伊豆の流罪人だったころから仕え続け、後に鎌倉幕府の宿老となった安達盛長(あだち もりなが。藤九郎)。
文士(武士に対して、文官として奉公した御家人。頼朝の武士団=鎌倉幕府では武士と文士が区別されていました)であったため、自身の武勇はないものの、時に武士以上の勇気を見せたこともありました。
今回は平家討伐に挙兵した頼朝が石橋山の合戦に敗れ、房総半島へと落ち延びて再起を図っていた頃のエピソードを紹介。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で言うところの、第6~7回(2月下旬ごろ放送)辺りに相当します。ドラマを観ている方は特に、野添義弘さんが演じていた“ニコニコおじさん”の意外な一面が垣間見えるかも知れません。
使者に派遣された和田義盛と藤九郎
……被遣和田小太郎義盛於廣常之許。以藤九郎盛長。遣千葉介常胤之許。各可參上之趣也。
※『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月4日条
【意訳】頼朝は再起を図るため、和田義盛(わだ よしもり。小太郎)を上総介広常(かずさのすけ ひろつね)の、また藤九郎を千葉介常胤(ちばのすけ つねたね)の元へそれぞれ派遣した。用件は自軍への加勢要求である。
さて、千葉介常胤を説得するために出発した藤九郎。頼朝の拠点から上総介の館までは片道約1日、千葉介の館へは片道約2日の距離と考えられます。
果たして藤九郎と和田義盛は説得に成功するのでしょうか。と思っていたら、2日後に和田義盛が帰ってきました。
及晩。義盛歸參。申云。談千葉介常胤之後。可參上之由。廣常申之云々。
※『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月6日条
【意訳】夜になって和田義盛が帰って来た。報告するところによれば「千葉介殿と相談してから、どうするか決めます」とのこと。
文面は「参上すべくのよし(可参上之由)」と前向きっぽいものの、そんなの表向きの建前に決まっています。おおかた鼻息の荒い和田義盛に対して、
「あー分かった分かった。千葉介殿と相談してからな」
と適当にあしらわれ、義盛も「まぁ前向きな答えではあるから」とほとんどトンボ返りしてきたのでしょう。
9月4日出発⇒9月5日到着(ほぼ門前払い)&出発⇒9月6日帰参という行程が目に浮かんできます。
「……ま、先方がそう申すのであれば、信じるよりあるまいな」
軽くあしらわれてしまった歯がゆさ、手応えのなさを感じながら、頼朝がイラついていたであろう顔もまた、目に浮かぶようです。
常胤の返答やいかに
盛長自千葉歸參申云。至常胤之門前。案内之處。不經幾程招請于客亭。常胤兼以在彼座。子息胤正胤頼等在座傍。常胤具雖聞盛長之所述。暫不發言。只如眠。而件兩息同音云。武衛興虎牙跡。鎭狼唳給。縡最初有其召。服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之。
※『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月9日条
一方の藤九郎はと言いますと、9月6~7日ごろ千葉介の館へ着くや、すぐに客亭(応接用の離れ)へ通されました。
(大丈夫だろうか?)
歓迎するふりをして誘い込んで殺し、その首を忠誠の証しとして平家に献上することだって出来るのです。
しかし、ここで命を惜しんでいては、得られる協力も得られません。大事なのは自分の命よりも頼朝の再起。藤九郎は覚悟を決めます。
(ままよ、虎穴に入らずんば虎子を得ずだ!)
果たして奥へ進むと、そこには千葉介常胤とその子息である千葉胤正(たねまさ。長男)・千葉胤頼(たねより。六男)らが待っていました。
「……あの?」
藤九郎は頼朝への加勢を求めましたが、常胤はじっと眠っているようでした。胤正と胤頼が、父を促して言います。
「武衛が虎のごとく決起して、狼どもの遠吠えを鎮めようとなさっている。源家再興の栄誉にお招き下さったと言うのに、なぜ加勢をためらわれるのでしょうか」
「そうです父上、ただちに武衛へお返事いたしましょうぞ!」
石橋山でボロ負けしてしまった頼朝を虎とは随分な買いかぶりですが、それだけ坂東において源氏の再興≒平家の圧政打破を願う声が満ち満ちていたのでしょう。
常胤はもちろん寝ていた訳じゃなく、息子たちに答えて言いました。
「……分かっておる。源家再興の喜びに涙が止まらず、言葉も出なかったのじゃ」
こうして千葉一族は頼朝への加勢を決断。藤九郎は急ぎ頼朝の元へ馳せ戻ったのでした。
終わりに
決起した千葉一族は9月13日に挙兵。同日中に下総国の目代である紀季経(きの すえつね)を襲撃してその首級を上げ(※)、翌9月14日には千田判官代親政(ちだ ほうがんだいちかまさ。平清盛の義兄弟)を生け捕るなど武勲を重ねました。
(※)大河ドラマで千葉介常胤が頼朝に献上していた(頼朝はドン引きしていた)首桶の中身がこれです。
その後も常胤らは数々の武功によって頼朝の天下草創に大きく貢献するのですが、これも藤九郎の勇気あればこそと言えるでしょう。
もちろん常胤は源家累代の家人であり、元から味方する気だったから、別に使者が藤九郎でなくても味方した可能性が高そうです。
しかしそれはコロンブスの卵というもので、最初の一歩を踏み出した者の勇気を否定する態度は、安全な後世から見た者の傲慢と言えます。
「……(前略)……右大将家が平家討ちを決められた時、親父は右大将家のお使いとして、敵になるンか、味方になるンかもわからん、坂東中の武士どものとこを廻って歩いた。これに勝る忠義があると思うか?親父は右大将家に身体を懸けてお仕えしてきたンじゃ……(後略)……」
※細川重男「黄蝶の夏―鎌倉 一二四七 宝治合戦」より
※セリフは盛長の嫡男・安達景盛(大蓮房覚地)による
佐殿のためならば、たとえ火の中水の中……武を持たぬからこそ、その勇気と心映えがよりいっそう輝いた藤九郎の献身的な奉公は、永く御家人たちの手本とされたことでしょう。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
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