1221年(承久3年)三代鎌倉殿・源実朝の暗殺事件後、ついに執権・北条義時討伐の命令が後鳥羽上皇(1198年に土御門天皇へ譲位)より下った。
朝廷側についた武士達にはどんな個人的事情があったのか?
今回は、彼らが幕府に弓引いた事情に迫る。
承久の乱とは?
・承久の乱のきっかけ
承久の乱のきっかけは、源実朝の死ともう一つ原因がある。
1219年(承久元年)後鳥羽上皇が、幕府に対して愛妾に与えた荘園の地頭を罷免するよう要求したのである。荘園地頭が愛妾「亀菊」の言う事を聞かないと云う理由だった。
しかし幕府は、頼朝から恩賞で賜った役職権限を取り返せないと拒否したのである。
要求が通らない事で、ついに後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒す計画を実行に移した。
・経過
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は、流鏑馬(古式騎馬射術)揃えを理由に1700騎以上の兵を招集する。
一方で鎌倉幕府の有力御家人や諸国の武士に、北条義時追悼の命令書を下した。
5日後、上皇が兵を挙げたという報告が鎌倉に届き、北条政子の下へ御家人たちが集まり事態打開を図る。
政子は集まった御家人達に、武士に所領を安堵させ権限を与えた源頼朝の恩恵を説き、どちらにつくのか決断を求めた。
ここで鎌倉御家人は一致団結し、軍議を重ね、3日後、義時の子息・北条泰時を全軍司令官としてたった18騎で出発。
軍勢はどんどん膨れ上がり、東国武士団19万騎が京都へ攻め込んだ。
京方の大内惟信ら2000騎は、甲斐源氏・武田信光と小笠原長清らの東山道軍(山梨→長野→京都ルート)5万騎に敗退。
義時の次男・北条朝時が進軍する北陸道軍4万騎は、越中国(富山県)から京都へ進入。
宇治川は、朝廷側の最終防衛ラインだったが、幕府側は溺死者を多数出しつつ突破する。
勝敗は明らかになり、後鳥羽上皇は北条義時討伐命令を取り下げたのである。
・後始末
戦後処理は以下の通りとなる。
後鳥羽上皇は隠岐、後鳥羽上皇の子息・順徳上皇は佐渡へ配流となる。
企てに反対していた土御門上皇は処罰の対象ではなかったが、自ら希望して土佐国へ配流となった。
今回の争乱計画に加わった朝廷に仕える貴族は処刑、流罪、行動停止処分となった。
朝廷側で戦った御家人・武士は、多くが処刑もしくは追放された。
朝廷側についた武士達の個人的理由
朝廷側についた武士たちには、様々な理由があった。
まずは「反北条」である。これが最もわかりやすい理由である。
代表的な反北条の一族としては、1203年(建仁3年)「比企能員の変」後、後鳥羽上皇に仕えた糟屋一族、1213年(建暦3年)の「和田合戦」を生き抜き、京都に逃げた和田義盛の孫・和田朝盛などである。
他にも、義時に上皇から賜った領地を没収された恨みを持つ者や、夫婦仲違いから朝廷側に味方した河野通信のような例もある。
また、一族内の確執で幕府と朝廷側に分かれた、佐々木広綱(兄)と佐々木信綱(弟)のような例もある。
宇多天皇皇子・敦実親王の流れを汲む宇多源氏・佐々木氏は、近江(滋賀県)を本拠地とする。
広綱は本領が近いため、京都治安維持・民政職と山城国(京都府南部)行政官を担当した。
一方、信綱は鎌倉在中で、北条義時の女婿だった。
信綱は、一族の大半が広綱に従う中で、幕府側で戦ったのである。
同様に有力御家人の三浦義村(兄)と胤義(弟)も兄弟で分かれた。
三浦胤義の妻は、二代鎌倉殿・頼家の愛妾で、若君(禅暁)まで生んでいた。
殺害された頼家と息子を嘆き悲しむ妻を見る度、北条氏を恨む気持ちが増したに違いない。
冷徹な兄・義村は、妻を憐れむ弟・胤義の気持ちを感傷だと決めつけたかもしれぬ。
熱い感情を持つ弟と、クールで非情な兄。
感情のすれ違いが積り、兄弟で袂を分かってしまったのである。
朝廷側についた武士の、その後
反北条氏で朝廷側についた糟屋有季の子息たちは全て討ち死。
和田義盛の孫・朝盛は逃亡の末、1227年(嘉禄3年)に捕まっているが、その後の動向は不明。
佐々木広綱は敗走後に捕らえられ、斬首。
三浦義村の弟・胤義は、朝廷側武将と共に敗れた結果を上皇御所に報告したが、上皇側は幕府の包囲戦を警戒し、早く立ち去れと云う返事だった。
胤義は冷たい主に愛想が尽き、自害した。
伊予国(愛媛県)御家人・河野通信は、逃げ延びて本領へ帰り抵抗を続けたが、結局敗れて陸奥国江刺に流罪。
子息・通政は殺害され、領地のほとんどが取り上げとなった。
幕府側で戦った子息・通久が、河野本家を継いだ。
余談だが、浄土宗一派「時宗」開祖・一遍上人は、河野通信の孫にあたる。
終わりに
後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の求心力低下を見逃さず、早くから広大な院領(上皇荘園領地)を京都在中御家人に少しずつ分け与え、懐柔していた。
上皇は利を持って御家人達を誘っていたのである。
しかし上皇が差出した利益だけで朝廷側に味方するほど、動機は単純ではなかった。
朝廷側についた武士は、いずれも北条氏や北条義時に反感や恨みを抱いた者が多かった。
京都在中御家人は貴人と接し、自身の家門を深く意識し、北条氏が牛耳る鎌倉幕府を下に見る意識も大きくなった。そこに個人的な恨み・反感や一族内の確執が加わり、起爆剤として燃え上がったのである。
朝廷側につき命がけで戦った武士達が、敗戦により主に門を閉じられ見捨てられる様は、哀れである。
参考文献
日本の歴史09「頼朝の天下草創」
この記事へのコメントはありません。