鎌倉時代には甲冑を身につけ出陣する女性武者がおり、一軍の指揮権も任される例もあった。
又は、城を守り前線部隊の後方支援を行ったり、合戦における当主の決断に関わる夫人達もいた。
最も顕著な例は、尼将軍として君臨した初代鎌倉殿夫人・北条政子である。
何故、女性の地位が高かったのか?
北条政子が尼将軍として政治権力を持ち、彼女の言葉を重んじていた御家人たちがたくさんいたわけだが、日本史においては少ない例である。
しかし、実は彼女が例外的な存在というわけではない。
鎌倉時代は、多くの女性が力を発揮出来た時代でもあったのである。
その理由は主に3つが挙げられる
1. 親と夫から相続する所領財産権を持つ
2. 軍役等で男性長期不在の結果、所領(財産)管理を受け持つ
3. 婚姻で家格上げを狙う地方豪族は娘に期待を掛けていた
つまり当時の武家の女性は財力があり、家の財産管理を任され、高い血筋との結びつきを得る期待の星と育てられていたのである。
合戦・争乱が多く流転が激しい鎌倉時代だからこそ、彼女達は実家と嫁ぎ先の財産を守り、所領の揉め事を収め、持てる才能と力を発揮せねばならなかった。
独立した財産を持ち、所領経営を預かる役割を果たし、夫や父親・兄弟の頼りになる存在が鎌倉時代の武家女性達なのである。
当然、自己肯定感が強く、自己主張が出来る実力も備え、合戦へ参加した女性もいた。
平氏を都から追放した源義仲には、巴御前と呼ばれる愛妾がいた。
彼女は早射ち弓芸の名人にして、一軍を率いて戦う大将だった。
女性という視点ではなく、職業軍人・指揮官像として終始伝えられている。
巴御前の他にも、合戦に出て活躍し、鎌倉御家人の尊敬を集めた板額御前(はんがくごぜん)も有名である。
甲冑を纏い戦場で活躍した板額御前とは?
板額御前(はんがくごぜん)とは、何者なのか?
彼女は、桓武平氏(桓武天皇皇子・高望王が平姓を賜り臣下)の流れを汲む越後国の豪族・城資国の娘にあたる。
源平合戦では平家方の有力な戦力だった城氏だが、平家滅亡と共に勢力が衰え、城一族は雌伏せざる得なかった。
鎌倉幕府歴史書「吾妻鏡」には、1201年(建仁元年)、城資盛(城資国の孫)が越後国で挙兵したことが記されている。
城資盛が反乱を起こした理由は、1200年(正治2年)に起こった「梶原景時の変」とされる。
梶原景時の後ろ盾で鎌倉幕府の御家人になった城氏は、景時を恩人と感じていた。
その為、敵討ちを目論み、兵を挙げたと考えられる。
板額御前は一軍を率いる大将として、甥・城資盛と参戦した。
新潟県胎内市にあった「鳥坂城」を拠点とし、約4ヶ月間幕府軍を相手に奮闘したのである。
彼女は、百発百中の弓の名手で軍略に長けていたと記されている。
しかし、両脚に矢を受け、捕虜となった。
二代目鎌倉殿・源頼家の前に引き出されても怯える様子など微塵もなく、その堂々たる姿に歴戦の御家人達は驚いて感心したという。
中でも甲斐源氏(山梨県に土着した源氏)一族・浅利義遠は「自分の妻に迎えたい」と頼家に申し出る程、惚れ込んだ。
頼家は「謀反人を何故妻に迎えるのか?」と問うと、義遠は「彼女となら、幕府や朝廷に忠義を尽くす強く逞しい男子を望めます」と答えた。
頼家は笑って許し、義遠は板額御前を妻とした。
その後、板額御前は夫の領地・甲斐国に移り住み、二人の間には一男一女が生まれた。
彼女の墓所「板額塚」は、浅利氏本領に近い山梨県笛吹市にある。
合戦時、実家に味方するよう説き伏せた女性たち
合戦の折、夫が自分の父方家系ではなく、妻の実家に味方した例も多くある。
源頼家の外戚・比企能員と一族が、北条氏との権力争いの末に謀殺された「比企能員の変」では、能員の女婿で武蔵国の御家人・笠原親景や中山為重、相模国の御家人・糟屋有季が比企氏側について戦死している。
北条氏と和田一族との闘争「和田合戦」においても、和田家と婚姻を結んだ横山時兼が和田氏側につくと、婿・波多野三郎らが和田方へ味方している。
後鳥羽上皇側と鎌倉幕府の合戦「承久の乱」では、三浦一族でありながら朝廷側についた三浦胤義の例もある。
彼の妻は、二代鎌倉殿・源頼家の妾だった。
胤義は「妻が頼家と息子を奪った北条氏を憎んでいるから朝廷側に味方する」と返事している。
北条氏と三浦一族との争乱「宝治合戦」における妻たちの言動はもっと直接的だ。
「吾妻鏡」には、毛利季光(鎌倉幕府文官・大江広元の四男、所領名を名乗る)に嫁いだ三浦泰村の妹の話がある。
兄・泰村の所を訪れ「夫・季光を味方にさせる。例えそのつもりが無くても必ず言い聞かせる」と約束したと云う。翌日、彼女は甲冑を付け御所に向かう夫の鎧袖を取り「北条側につくことは後ろめたく思うべき」と責めてたので、季光は三浦側に加わった。
このように妻の意見を入れ、彼女の実家と一蓮托生に行動する事は不思議なことではなかったのである。
「御成敗式目」に見る女性の権利
3代執権・北条泰時が制定した「御成敗式目」は、主に所領相続や押領(他人の所領や年貢を力づくで奪って所有)等の、揉め事を解決する為に制定された。
しかし裁判記録には、当時の社会実情が記載される。
例えば娘に相続させた所領でも、彼女が親を拒み反抗する態度であれば、譲った所領を取り戻す事が可能とある。
ところが、当時は女子に譲った所領は取り戻し不可の法原則があった。
これは、父母が親不孝や男に騙されて貢ぐトラブルを避けるための娘に対する規定だった。
次に、結婚した女性の財産権について調べると、
・女性が持参した財産は、夫が勝手に処分出来ない
・所領以外の財産は、彼女の子息がいれば処分可能だが、子がない場合は、女性の実家へ返す
などの規定があった。
更に結婚後に夫から所領を譲られた場合では、夫が死別と離別では違っていた。
●死別
夫が妻に遺言を残していたり、存命中に譲った所領はそのまま所持可能だが、彼女が別の男性と再婚すれば、亡夫の所領は権利を失う。
●離別
重大な罪があって離縁した場合は夫の所領権を失うが、夫が他の女性と浮気して妻を捨てた場合は所領権を保持出来た。
夫から譲られた所領の権利は女性の再婚で状況が変わるのだが、この時代の所領経営は妻の職務だった。
つまり再婚の証明とは、配偶者の領地及び家内経営だったのである。
終わりに
鎌倉時代の武家女性は、他の時代に比べれば自分の能力を思う存分発揮出来る立場だったようである。
もちろん合戦などにより、実家や嫁ぎ先の没落という憂き目に在った女性も多い。
しかし鎌倉時代は女性に貞節を要求する時代ではなかった。
実家や嫁ぎ先が争乱で滅んだ後、新たな拠り所を見つけ再婚した女性たちも多くいる。
例えば北条義時の正室「姫の前」は、「比企能員の変」の連座で義時と離縁したが、京都の公卿・源具親と再婚している。
また、「畠山重忠の乱」で嫁ぎ先が滅ぼされた重忠の妻は、時政の前妻の娘であった為、重忠・遺領の一部を相続し、足利義純と再婚した。
義純は、後に畠山を名乗り、畠山家を再興した。
彼女達からは、人生の流転に絶望する事なく前へ進む強い意志が感じられる。
女性の強さ・逞しさは、当然男性と比例する。
雄々しく戦場を駆け抜けた武士達には、それを力強く支える女性達がいたのである。
参考文書
日本の歴史09「頼朝の天下草創」
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