鎌倉殿の13人

坂東武者にも2軍・3軍があった?歴史学者・本郷和人の大胆な仮説【鎌倉殿の13人】

鎌倉に武士の都を興し、新たな世を切り拓いた源頼朝(みなもとの よりとも)。その歴史的偉業を支える中核となったのは、関東一円に蟠踞していた坂東武者たち。

彼らは原則的に「我らが鎌倉主」頼朝に仕える同士として力を合わせ、理論上は互いにフラットな関係であったと言われています。

(※実際には頼朝直参である「御家人」と、御家人の家臣である「非御家人(陪臣)」があり、中には御家人/非御家人の立場をかけ持ちする者もいました)

そんな坂東武者たちに、実は1軍・2軍・3軍というランク分けがあったんじゃないか……今回は歴史学者・本郷和人が提唱する仮説を紹介。

3軍扱いに不貞腐れる?小山朝政(イメージ)菊池容斎『前賢故実』より

なんだかプロ野球チームみたいですが、各軍に誰が所属していたのか、仮説とは言え気になりますね。

「頼朝様の花押がなくちゃ嫌だ!」千葉介常胤のワガママ

さて、本題に入る前に『吾妻鏡』よりこんなエピソードを一つ。

令補將軍給之後。今日政所始……(中略)……千葉介常胤先給御下文。而御上階以前者。被載御判於下文訖。被始置政所之後者。被召返之。被成政所下文之處。常胤頗確執。謂政所下文者。家司等署名也。難備後鑒。於常胤分者。別被副置御判。可爲子孫末代龜鏡之由申請之。仍如所望云々……。

※『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月5日条

時は建久3年(1192年)8月5日。征夷大将軍となった頼朝公の政所始において、御家人たちに命令が下されました。

「今までは佐殿が直接みなに下文(くだしぶみ)を発行していたが、これからは政所の発行した下文をもってこれに代える。現在持っている下文についてはすべて更新するゆえ、提出するように(要約)」

これに対して、真っ先に反対したのが千葉介常胤(ちばのすけ つねたね)。かつて敗残の頼朝に救いの手を差しのべ、父とも慕われた老将です。

千葉市立郷土博物館蔵 千葉介常胤像。Wikipediaより(撮影:Ibaraki101c氏)

「断る。そんなもの、御大将の花押(かおう。サイン)がなければ将来何の証拠にもならないではないか。どうか我が下文にだけは、花押を下され!」

「……と言って聞かないのですが、どうされますか?」

「千葉介だけは特別ぞ」

頼朝は「父」常胤のため、特別に自ら花押を書き添えた政所下文を与えました。

……〔被載御判〕
下 下総國住人常胤
可早領掌相傳所領新給所々地頭職事
右。去治承比。平家壇世者。忽諸 王化。剩圖逆節。爰欲追討件賊徒。運籌策之處。常胤奉仰朝威。參向最前之後。云合戰之功績。云奉公之忠節。勝傍輩致勤厚。仍相傳所領。又依軍賞宛給被所々等地頭職。所成給政所下文也。任其状。至于子孫。不可有相違之状如件。
建久三年八月五日

※『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月5日条

【意訳】下総国の千葉介常胤に命を下す。ただちに先祖代々の所領を治め、新たに任じた各地の地頭職をまっとうせよ。
かつて治承のころ、世にはびこり朝廷をないがしろにしていた平家を討伐するため、そなたは真っ先に駆けつけた。
合戦での武勇、そして奉公の忠義は誰よりもすぐれたものである。よって頭書の恩賞(所領の安堵と地頭職の新任)をもって報いる。子々孫々まで相違なく忠義を尽くすように。

さぁ常胤の喜ぶまいことか、頼朝の墨蹟うるおわしい花押つき下文(源頼朝袖判下文)を、末永く大切にしたということです。

頼朝の保証があって、初めて信用された政所下文

残念ながら、常胤の授かった下文は長い歴史の戦乱に逸失してしまいました。しかしこのエピソードの傍証となる下文を、下野国(現:栃木県)の豪族・小山朝政(おやま ともまさ)が子孫に伝えています。

(源頼朝)
(花押)
下 下野國左衛門尉朝政
可早任政所下文旨領掌所々地頭職事
右件所々地頭成賜政所下文
任其状可領掌之状如件
建久三年九月十二日

※「源頼朝袖判下文」建久3年(1192年)9月12日付

【意訳】下野国の小山朝政に命を下す。すみやかに政所下文が任じた通りに地頭職をまっとうせよ。政所下文の通りに。そこに書いてある通りに。

頼朝の花押(画像:Wikipedia)

頼朝自ら「政所下文を信用して!ちゃんとわしが保証するから!」とばかり政所下文のフレーズを2度繰り返し、最後に

「その状に任せ領掌すべきの状、くだんの如し(その書状=政所下文に書いてある通り辞令の効力を保証する、と確かにわしが書いたぞ。だから信用してくれ)」

とダメ押ししている辺り、よほど御家人たちは政所下文を信用していなかったことが判ります。

「嫌じゃ嫌じゃ、頼朝様のお墨付きでなければ信用できぬ!」

せっかくの政所下文も、いちいち頼朝が保証してやらねばならないのでは意味がありません。その後、政所別当の大江広元(おおえ ひろもと)らの苦労もあって、どうにかこうにか普及浸透していったのでした。

実力以上に位置で決まった?坂東武者の1・2・3軍

……以上、長い前置きとして源頼朝袖判下文のエピソードを紹介して来ました。

これが坂東武者の1軍・2軍とどんな関係があるの?と思われるでしょうが、結論から言うと各軍の構成地域は以下の通りです。

【1軍】相模国(現:神奈川県)、武蔵国(現:東京都+埼玉県)、伊豆国(現:静岡県伊豆半島)、駿河国(現:静岡県東部)
【2軍】安房国・上総国・下総国(いずれも現:千葉県)
【3軍】上野国(現:群馬県)、下野国(現:栃木県)、常陸国(現:茨城県)
※本郷和人の推測(参考文献)に基づく。

まぁ「伊豆&駿河(静岡県)は坂東(関東)か?」という疑問はさておき、実力(武力・財力など)ではなく位置関係で決まるのですね。これは「いざ鎌倉」という言葉があるように、有事に際してすぐに駆けつけられるのは重要なアドバンテージだったことによります。

鎌倉幕府「2軍」ボスだった?千葉介常胤。菊池容斎『前賢故実』より

だから鎌倉から近い順に1・2・3軍が設けられ、特に2・3軍のボスである千葉介常胤と小山朝政についてはワガママを聞いてやったのではないでしょうか。

「(今後も増え続けるであろう)御家人全員に頼朝の花押を添え書きするのは大変だけど、みんなを納得させるためにそれぞれのボスだけは特別扱いしてやろう」

という配慮があった一方、1軍の有力御家人たちについては「お前たちは運営者サイドだから」とワガママを聞かなかったかも知れません。

イメージ的には、江戸幕府と諸藩の関係が当てはめられそうです。

1軍……譜代大名
2軍・3軍……外様大名
※親藩(鎌倉殿一族)はほとんどいないから除外

もちろん鎌倉から遠くても常胤のように熱烈な忠臣もいたし、近くても謀叛の野心を秘めている者もいたでしょう。

現時点ではあくまで仮説に過ぎませんが、今後研究が進んで坂東武者の1・2・3軍制度について解明されるかも知れませんね。

※参考文献:

  • 本郷和人『歴史学者という病』講談社現代新書、2022年8月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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