挙兵した源頼朝(演:大泉洋)の前に立ちはだかった「東国の御後見」こと大庭景親(演:國村隼)。
最終的には敗れ去ってしまいましたが、虜囚の身となってなお堂々たる最期でした。
さて、そんな景親ら大庭一族は滅び去った訳ではなく、子孫たちが名門の誇りを後世に受け継いでいたと言います。
今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、大庭景親の子孫である大場(おおば)一族を紹介。
果たして彼らはどのような生涯をたどったのでしょうか。
まずは大庭一族の概略について
大場
家傳に権守景宗が末流なり。相模国大場に住せしより家號とすといふ。宮本系図を按ずるに、鎮守府将軍忠通が男鎌倉四郎景村が三代に景宗あり。大場を大庭に作れり。今相模国高座郡に大庭村あるときは、家傳大場とせるは誤か。或はのち文字をあらためしか。
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
【意訳】大場家は、相模国権守を称した大庭景宗(かげむね。景親の父)の末裔であると言い伝えられている。系図は以下のとおりである。
【鎌倉・大庭氏略系図】
……平忠通-鎌倉景村-鎌倉景明-大庭景宗-(懐島景義・大庭景親・豊田景俊・俣野景久)……
※諸説あり。
相模国高座郡には大庭という地名があり、大場という字は間違って伝わったのか、あるいは事情があって同音異字に変更したのかも知れない。
……大庭のままでは景親の残党として狙われかねないため、大場と変えた可能性が考えられますね。
それでは、江戸時代を生きた大場一族を見ていきましょう。
大場景友(かげとも)
●景友 藤内
櫻田の館に仕へ、寛永元年文昭院殿供奉の列にありて御広敷の伊賀者に加へらる。
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
生没年不詳、通称は藤内(とうない)。
桜田の館こと甲府藩主・徳川綱重(とくがわ つなしげ)に仕えていたところ、宝永元年(1704年)に徳川家宣(いえのぶ。綱重の子)が第6代将軍として江戸城に入った時これに随行。
御広敷(おひろしき。大奥)の番をする伊賀者となったそうですが、伊賀者と言えば伊賀流忍者のこと。そんな簡単に「今日から君は伊賀忍者ね」なんてなれるのでしょうか。
あるいは永い歳月の中で伊賀に移り住んでおり、単なる「伊賀の出身者」という意味に過ぎない可能性も考えられます。
大奥と伊賀忍者(?)……詳しい活動記録がないため、色々と想像がはかどりますね!
大場盈章(みつあきら)
●盈章 定八郎 母は某氏。
蓮浄院広敷の伊賀者を勤む。のち書役を歴て侍に転じ、宝暦八年五月二十一日班をすゝめられて用達となり、十二年五月六日用人に進む。十三年五月二十七日死す。年七十五。法名義節。四谷の全徳寺に葬る。後代々葬地とす。妻は高木主水正家臣吉田五郎大夫某が女。
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
生没:元禄3年(1690年)生~宝暦13年(1763年)没
通称は定八郎(さだはちろう)。家宣の側室・蓮浄院(れんじょういん。園池公屋の娘、名は須免・スメ)に伊賀者として仕えました。
父親が伊賀者だから息子も伊賀者なのは当たり前なので、いちいち書く必要もないと思います。
それをあえて書くというのは、やはり個々の資質によって伊賀者=忍者?になるならない(なれない)が決められたのでしょうか。
後に書役(書記官)をへて侍(護衛役)に昇進、宝暦8年(1758年)5月21日に用達(ようたし。物品調達担当)を務めます。
文中「転じ」とあるので、伊賀者をやめて書役になった……ということは、やはり伊賀者は役職つまり忍者だったのでしょう。
宝暦12年(1762年)5月6日には用人(ようにん。用向きを伝える役職、御用人)に取り立てられました。用人は優秀な者から多く選ばれましたが、かなりの高齢なので、この場合は名誉職と考えられます。
翌宝暦13年(1763年)5月27日に74歳で亡くなり、四谷の全徳寺(ぜんとくじ)に葬られ、以後代々の菩提寺となりました。
大場景武(かげたけ)
●景武 六郎左衛門 母は五郎大夫某が女。
宝暦八年十月二十八日はじめて惇信院殿に拝謁し、十三年八月四日遺跡を継、小普請となる。安永八年四月二十五日死す。年六十二。法名了孝。妻は播磨守家臣一鬼治兵衛弘次が女。
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
生没:享保3年(1718年)生~安永8年(1779年)没
通称は六郎左衛門(ろくろうざゑもん)、母親は正室である吉田五郎大夫(よしだ ごろうだゆう)の娘ですから、嫡男となります。
41歳の時に第9代将軍・徳川家重(いえしげ。惇信院殿)に仕え、46歳で亡き父より家督を継承、小普請(こぶしん)となりました。
小普請とは無役の下級武士で、往々にして困窮していたため、景武も苦しい生活を強いられていたことは想像に難くありません。
男児はおらず、死期を悟った折に松村正綱(まつむら まさつな)の子を婿養子にとり、安永8年(1779年)4月25日に62歳で世を去りました。
大場景則(かげのり)
●景則 亀三郎 実は松村平兵衛元好が二男、幸八郎正綱が男、母氏は某、景武が終に臨て養子となり、其女を妻とす。
安永八年七月五日遺跡を継、寛政四年閏二月二十九日死す。年三十七。法名良休。妻は岡武(原文ママ。景武か)が女。
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
生没:宝暦6年(1756年)生~寛政4年(1792年)没
通称は亀三郎(かめさぶろう)、24歳となった安永8年(1779年)に婿養子として家督を継いだものの、寛政4年(1792年)閏2月29日に37歳で世を去ります。
舅と同じ小普請だったのか、目覚ましい働きなどは記録されていませんが、苦境にあってどのような努力を重ねていたのか興味深いところです。
大場景亨(かげみち)
●景亨 幸之丞 母は某氏。
寛政四年五月四日遺跡を継。時に十七歳
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
生没:安永5年(1776年)生~存命(『寛政重脩諸家譜』編纂時点)
通称は幸之丞(こうのじょう)、寛政4年(1792年)5月4日に17歳で家督を継ぎました。
その後どんな人生をたどったのか、他の史料や文献から発見できたらいいですね!
終わりに
【大場氏略系図】
……大場景友(かげとも)-大場盈章(みつあきら)-大場景武(かげたけ)-大場景則(かげのり)-大場景亨(かげみち)……
※『寛政重脩諸家譜』千三百四十八 平氏(良文流)荻野 大庭
以上、江戸時代に活躍した大庭一族の末裔・大場氏五代を紹介してきました(家督継承者のみ。兄弟姉妹などは割愛)。
『寛政重脩諸家譜』によると大場氏の家紋は三大文字(みつだいもんじ)および藤丸(ふじまる)とのことです。
藤系の家紋は藤原氏に多く、大場≒大庭氏は坂東平氏ですが、もしかしたら「藤内」景友が自分の代から始めたのかも知れませんね。
最初は伊賀者として活躍していたものの、代が下るにしたがって小普請など苦しい生活を強いられたであろう大場氏。
大場景亨やその子孫たちが、奮励努力して再び御家を盛り立てて欲しいところ。果たしてどんな生涯をたどったのか、今後の究明が俟たれます。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第八輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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