飯篠家直とは
戦国乱世、数多くの武芸者を育て上げ「剣聖(けんせい)」と謳われた二人の有名な剣豪がいた。
その剣豪の名は塚原卜伝(つかはらぼくでん)と上泉信綱(かみいずみのぶつな)である。
その一人、塚原卜伝が若い頃に学んだのが「鹿島の剣(かしまのけん)」と「香取神道流(かとりしんとうりゅう)」であり、「香取新道流」の創始者が飯篠家直(いいざさいえなお)である。
今回は、日本兵法三大源流の一つとなる「新道流(しんとうりゅう)」の創始者で「日本兵法中興の祖」とも呼ばれ、無益な殺生を諌めた剣豪・飯篠家重について解説する。
出自
飯篠家直は室町時代の中期、元中4年(1387年)下総国香取郡飯篠村(現在の千葉県香取郡多古町飯笹の辺り)の郷士・飯塚金兵衛の子として生まれる。
家直は幼少の頃より刀槍に優れ、坂東八平氏や関東八屋形の千葉氏に仕え幾度の戦に参戦して手柄を立て、ただの一度も負けたことがなかったという。
しかし、享徳4年・康正元年(1455年)の享徳の乱で家直が仕えていた千葉家第18代当主・千葉胤宣とその父・胤直が自刃したため、千葉氏宗家が事実上滅亡してしまう。
そのため家直は武士として生きること、戦乱の中で生きることに無常を感じたという。
ある日、家直の家人が香取神宮の神井(聖水の湧く井戸)で馬を洗っていたところ、人馬ともに突然死んでしまった。
これを見た家直は香取の神の不思議な力を感じ取り、年齢は60歳だったが一族郎党を解雇し、香取神宮の奥に隠棲して剣術修業に専念することを決意したのである。
香取新道流
家直は、剣神とされる経津主神(ふつぬしのかみ)を祀っている香取神宮境内の梅木山不断所に、千日千夜の大願を行って修業に没頭した。
この修業の中、梅の古木の上において家直は「汝、後に天下剣客の師とならん」と香取大神の神示と神書(兵法書)一巻を授けられたという。
そして、ついに兵法とは平和の法なりと「不殺の思想」の悟りを得て、自らの兵法を経津主神の真伝を以って「天真正伝」を冠し、「天真正伝香取新道流香取新道流(てんしょうしょうでんかとりしんとうりゅう)」、「香取新道流(かとりしんとうりゅう)」と名乗った。
この当時、家直の近辺では「香取の剣」や「鹿島の剣」といった古い剣術は存在していたが、香取神宮と鹿島神宮の神職に伝承されるだけで、その剣術は一部の人間だけのものであった。
しかもいざ実戦となった場合、これらの剣は後の剣術と比較してもまだまだ初歩的な段階で、体格の優劣で戦いの勝敗が大方決まってしまう場合が多かった。
そんな中、家直は「香取の剣」と「鹿島の剣」を元に「型」の無かったと言われる剣術(武術)の世界において、後の武道の原型を体系化したとされている。
特に「香取新道流」は剣術・槍術・薙刀術においては後世に隆盛した諸流派の源流となっており、最も根本的な流儀武術の流派と考えられている。
そのことから、「新道流」は「念流」「陰流」と並び日本兵法三大源流の一つとされている。
不殺の思想
「香取新道流」は、当時の時代背景や価値観などを考慮しても、殺人の技でもある剣術や武術を伝えながら、最も強く教えているのは「不殺の思想(ふさつのしそう)」である。
「不殺の思想」とは、「香取新道流」の目録の巻頭書に「兵法は平法なり、男子たる者、平法を知らずしてあるべからず」とあり、いたずらに武技を用いて人を傷つけるのではなく、戦わずに目的を達成することが真の勝利であるとしている。
また、家直は「熊笹の教え」というものも伝えている。これは他流試合を申し込まれた場合、熊笹の上に座って「さぁどうぞ」と無防備な状態で誘い、相手の意欲や戦意を無くさせて戦わずして感服させるというものである。
このため「香取新道流」の修行者には刃傷沙汰で命を失った者はほとんどいなかったという。
家直は門人たちに「真実の武道は人の心にあり、人の道である。心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。したがって自分自身を完成された人間に近づける努力をしなければならない」と諭し、心身鍛錬の術として武士から庶民まで広く教えたという。
「不殺の思想」は、後の武士道精神や諸流派の理念の中に用いられてきた普遍的な思想でもあり、現在の日本剣道連盟制定の「剣道の理念」の冒頭でも「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」と言っている。
まさに家直の思想が現代にまで受け継がれている証拠であると考えることができる。
おわりに
飯篠家直は102歳まで生き、「鹿島神流」の松本政信、「香取新道流」の塚原安幹(塚原卜伝の義父)という高弟を育て、後の剣豪たちの礎となった人物である。
家家直の高弟たちが教わった「香取新道流」に加えて自身の研鑽を積んで諸流派を創始して剣術を普及したこと、無益な殺生をさせずに「武道の道は人の道」と説いたことにより、飯篠家直は「日本兵法中興の祖」と呼ばれている。
飯篠家直がもしいなかったら、戦国時代の二人の剣聖「塚原卜伝」と「上泉信綱」はいなかった。
日本で一番強く・多くの弟子を残して大名のような存在となった「剣聖」の生みの親が彼であった。