南北朝時代

佐々木道誉 「室町幕府の最高実力者となったバサラ大名」※当代一の文化人

時代の変わり目には決まって強烈な個性を持った人物が現れる。

バサラ大名・佐々木道誉(ささきどうよ)、眼光鋭く相手を威圧する強烈な風貌をしたこの男は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて激動の乱世を駆け抜けた武将である。

この男は鎌倉幕府に仕えながら裏切り、後醍醐天皇についたがまた裏切る。
一方で茶の湯や生け花、連歌など新たな文化を育てる傑出した才能を持つ男でもあった。

南北朝動乱期を駆け抜けたバサラ大名・佐々木道誉について解説する。

バサラとは

バサラとは、「ばさら」「婆沙羅」「婆左羅」などとも表記し、南北朝内乱期に見られる顕著な風潮で、華美な服装で飾り立てた伊達(だて)な風体や派手で勝手気ままな遠慮のない、常識外れの振舞いまたはその様子を表す言葉である。

佐々木道誉は、バサラ大名の筆頭格と言われた武将である。

佐々木道誉とは

佐々木道誉

佐々木導誉像

佐々木道誉(ささきどうよ)は、永仁4年(1296年)に近江国を本拠地とする鎌倉幕府創設の功臣で、有力御家人・近江源氏佐々木氏一族の分家である京極氏の四男として生まれる。※「異説として徳治元年(1306年)に生まれたという説もある。

京極氏に生まれたことから京極道誉(きょうごくどうよ)または諱が高氏のために京極高氏(きょうごくたかうじ)とも呼ばれた。
母方の叔父である佐々木貞宗の跡を継いで佐々木氏の家督を継承して佐々木道誉となった。

若くして鎌倉幕府の最高権力者執権・北条高時の御相伴衆として仕え、27歳で検非違使に任じられ京都の治安を守る職についていた。

そんなエリート御家人となった道誉に大きな転機が訪れる。

建武の新政

佐々木道誉

後醍醐天皇像

元弘元年(1331年)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵、後醍醐天皇は笠置山に籠るも1か月で鎮圧される。(元弘の乱

後醍醐天皇は捕らえられ元弘2年(1332年)に隠岐島に流されるが、この時、後醍醐天皇の護送役と道中警護にあたったのが道誉であった。
都から隠岐島に向かう十数日の間に、道誉は後醍醐天皇から幕府を討つ理由を聞かされて次第に天皇の意見に傾倒していく。

後醍醐天皇は幕府に不満を抱く各地の武士たちの決起をうながし、河内国では楠木正成(くすのきまさしげ)が挙兵したため、この機に後醍醐天皇は隠岐島を脱出する。
これに対して幕府は、有力御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)を大将とする鎮圧軍を京都に派遣した。

道誉は進軍して来た尊氏を近江でもてなし、後醍醐天皇から倒幕の綸旨(りんじ・天皇から下された命令書)を受けたと告げて、尊氏と共に鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇側に寝返ってしまうのだ。

道誉は尊氏や赤松円心らと共に、京都の幕府側の拠点・六波羅探題を攻め滅ぼした。
この時、六波羅探題にいた光厳天皇らを捕らえて、天皇の証である「三種の神器」を手に入れている。

鎌倉幕府の命令を忠実に実行していた道誉だったが、時勢の変化を敏感に感じ取り後醍醐天皇に味方して勝者の一員となった。
その翌日、東国では新田義貞が挙兵して鎌倉幕府を攻め、執権・北条高時ら北条一族が自害して鎌倉幕府は滅亡した。

こうして後醍醐天皇による建武の新政が始まり、道誉は新政府において重要な地位である雑訴決断所の奉行人となった。

足利政権の立役者

後醍醐天皇は、公家や仏門、お気に入りの武将ばかりを優遇したため、建武の新政は早々に暗礁に乗り上げてしまう。
建武の新政が始まって2年後、北条氏の残党が蜂起して鎌倉は占拠されてしまった。

佐々木道誉

足利尊氏像

足利尊氏は討伐軍を率いて京都を出発、道誉も従軍して鎌倉奪還に成功。尊氏はそのまま鎌倉に居座り功績のあった武将らに天皇の許可を得ずに恩賞を与えた。

尊氏の勝手な振舞いを知った後醍醐天皇は、尊氏を朝敵として討伐軍を派遣する。
この時、道誉は尊氏に天皇方と戦うことを強くうながした。
道誉は尊氏に「武家の棟梁となる人がおらず、心ならずも公家に従ってきたが、尊氏様が立つと知って付き従わない者はいないだろう」と言った。

建武2年(1335年)12月、道誉は天皇が送った討伐軍と激戦となり、弟は討死し自らも傷を負ってしまう。
すると、なんと道誉はすぐさま天皇方に降伏して寝返ってしまった。
6日後、天皇方として戦場に立ち足利軍と対峙するが、他の戦場で足利方有利の知らせを聞くと今度は足利方に寝返り、後醍醐天皇の軍勢を散々に蹴散らした。(※一説には敵を欺くために一度天皇方に寝返ったという説もある

尊氏軍は大勝利の勢いもあって京都まで攻め上り、遂には後醍醐天皇を退位させ、尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立。尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府を樹立する。

後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を成立させ、2人の天皇が並立する南北朝時代が始まるのだ。
寝返りを繰り返し、強い者につく道誉の振舞いは乱世を生き抜く渡世術であった。

この時代は裏切りが恥という感覚が希薄であり、無能な主君を裏切ることは良いこと、そんな観念もあった時代だった。

道誉は足利政権樹立の立役者として若狭・近江・摂津・出雲・飛騨・上総の守護を歴任することになり、勝楽寺(現在の滋賀県甲良町)に城を築き本拠地とした。

バサラな振舞い

佐々木道誉

妙法院 庫裏 wiki c 663highland

ある日、道誉が鷹狩りの帰り道に妙法院という寺院の前を通りかかると、見事に色づき紅葉した木があった。
生け花の名手であった道誉は、家臣に枝を1本取ってくるように命じた。

しかし、妙法院は上皇の弟が住職を務める門跡寺院で、枝を折ろうとした道誉の家臣を僧兵が捕らえて殴る蹴るの暴行を加えた。
これに怒った道誉はその晩に300の兵を率いて妙法院を取り囲み、なんと焼き討ちにして宝物を奪い取ってしまったのだ。

妙法院は比叡山延暦寺につながる天台宗の寺院で、たちまち「まるで天魔の仕業」と大問題となり、比叡山延暦寺や朝廷から室町幕府に対して道誉親子を死罪にするように要求された。

しかし幕府は、道誉を上総に配流するという案外軽い処分にした。

道誉は幕府の命に従って上総に下向するが、一族郎党を引き連れた道誉はその途中にあちこちで遊女を招き派手な宴会を催したという。
供の者たちの服装は、皆当てつけるかのように比叡山の神獣である猿の毛皮を腰当てにしており、とても処罰を受けた人の行いとは思えない所業であったという。

当時の寺院、特に延暦寺の流れを汲む寺院は自分たちの権威を守るために僧兵を動かし、朝廷に働きかけをして支配者層(幕府や守護)には厄介な存在であった。

室町幕府は処罰という部分では延暦寺側の要求は受け入れたが、量刑については死罪とした延暦寺側の意見を退けた。
しかも、処分から4か月後、道誉は尊氏から京都に呼び戻されて幕府の仕事に復帰している。

実は道誉は幕府にとっては欠かせない存在で、連歌の大家でもあった。

連歌は当時、武士と公家の積極的な友好のツールの一つで、連歌の後には宴会など余興が行われた。
その連歌の大家で宴会などを取り仕切る道誉は、幕府には必要不可欠な人物であったため罪が軽かったとされている。

観応の擾乱

南北朝の争いは武力に勝る北朝の優位で推移するが、いつしか幕府内部で抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が起きる。

佐々木道誉

足利直義(勝川春亭画)

尊氏の弟・直義と、尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)が対立。直義は兄の公認で実質的に幕府の政治を取り仕切っていた。
一方、師直は南朝との戦いで数々の武功を挙げた幕府一の軍事的貢献者兼実力者だった。

東国武士・鎌倉武士の真面目さを持つ直義と、バサラ武将でもあった師直はそりが合わなかった。
ついに師直は尊氏を担いだ軍事クーデターを起こし、直義を幽閉して権力の座から追い落す。

しかし、直義は都を脱出して反師直勢力を集めて師直を追い込み一族を攻め滅ぼすことに成功。直義は再び権力の座に返り咲くが、今度は尊氏と対立してしまう。

直義は後醍醐天皇から尊氏討伐の綸旨を授かり、直義派が尊氏派よりも多数となり尊氏は危機に陥ってしまう。

この危機に道誉が動いた。尊氏に対して南朝側に和睦して後村上天皇から直義討伐の綸旨を受けるように進言したのである。尊氏がこれを受けると正平一統(南北朝統一)が成立し直義は失脚、急逝したのである。

武家権勢導誉法師

しかし、2年に及んだ観応の擾乱で尊氏は傷を負い、それがもとで正平13年/延文3年(1358年)に亡くなってしまった。
2代将軍となったのは尊氏の嫡男・義詮で、義詮は人の口車に乗りやすい付和雷同の人物であったという。
そんな義詮を補佐し実際の政(まつりごと)を行うのは評定衆であった。

評定衆に名を連ねたのは、足利一門の細川清氏仁木義長と道誉などの有力守護7名であった。

仁木義長が6か国の守護となり評定衆内で権勢を振るうようになると、将軍・義詮を軟禁してしまう。
道誉は機転を利かせて義詮を救出し、他の評定衆と共に仁木義長を京都から追放した。

代わって権勢を振るうようになったのが幕府No.2の執事となった細川清氏だった。そして道誉が娘婿に与えようとした加賀の守護職を横取りし、道誉が孫に与えた摂津の守護職の返上を求めてきた。

道誉は確執があった細川清氏を廃して、将軍親裁の政治を復活させた。
有力な足利一門を追い落とし室町幕府No.2となった道誉は「武家権勢導誉法師」と恐れられるようになった。

佐々木道誉

斯波高経像

そんな道誉の前に最大の敵が現れる。足利一門の越前守護・斯波高経(しば たかつね)である。
高経は一門の中で足利将軍家に匹敵する家格を持つと自負し、幕府草創期には後醍醐天皇方の有力武将・新田義貞を討ち取った武勇に秀でた武将である。

道誉は高経の3男に娘を嫁がせており元々二人の仲は良かったのだが、細川清氏が失脚すると高経は幕府内での自分の立場を強化し4男・義将を将軍執事の地位につけ、自分は執事の父として幕府の実権を握った。

高経は幕府の要職を斯波一族で独占してしまうが、道誉は高経の追い落としを図るためにバサラ大名らしい驚くべき策を考えつく。

バサラな花見

道誉は、高経が将軍の御所(邸宅)で公家や守護を招く盛大な花見に目をつけた。
道誉のもとにもその花見の招待状が届き、道誉は出席の返事を出した。

佐々木道誉

イメージ画像 勝持寺 桜ヶ丘 wiki c 663highland

高経ら斯波一族の権勢のために開催される花見だったが、道誉はその同じ日に将軍御所から10kmほど離れた京都・大原野でかつてない盛大な宴を開いた。

京都中の芸能人が根こそぎ集められ、寺の高欄には金箔が施してあり、なんと背の高い桜の木の前に大きな真鍮の花瓶を置いて桜の木自体を生け花とした。また、巨大な香炉を用意し香を一気に焚かせ、辺りはこの世のものとは思えないほどの香りが漂ったという。
宴には道誉が流行らせた茶の湯や生け花が持ち込まれ、それは「世に類無き遊」と謳われるほどであり、道誉の花見には次々と客が訪れたという。

一方、高経主催の花見には人はほとんど集まらず、将軍の屋敷で宴を開いた高経の面目は丸つぶれとなった。
その腹いせに高経は後日、道誉の仕事の不手際を責めて摂津守護職を召し上げてしまった。

これこそ道誉の計画通りだった。守護職を召し上げられた道誉は高経の高圧的な政治に反発する多くの守護を味方に引き入れ、将軍・義詮に讒言し高経を追い落としたのである。(貞治の変

道誉はその後、3代将軍・義満にも仕えて室町幕府の重鎮であり続けた。

正平23年/応安元年(1368年)に隠居したとされ、文中2年/応安6年(1373年)に近江国勝楽寺で亡くなった。享年78であった。

当代一の文化人

道誉はこの当時、随一の文化人として連歌・猿楽・茶道(茶の湯)・香道・立花(生け花)などに通じていた。

連歌の古今和歌集とも言われる「菟玖波集(つくばしゅう)」には81もの作品が入集されており、連歌の大家として名声を得ていた。
貴族の中には道誉に憧れを抱く者も多く、猿楽では観阿弥・世阿弥と交流があり、大和猿楽の外護者であったという説もある。

道誉は幕府内において、文化人として公家との交渉役を務めた。

特に連歌後の饗宴が華やかで道誉唯一のものであったために、公家たちに大人気があった。

道誉が幾らバサラな振舞いをしても幕府にすぐに許され、配流されてもすぐに京都に呼び戻されるほどの教養人(文化人)であったのだ。

おわりに

道誉は本拠地とした近江国勝楽寺の荒れ地を開墾し、ため池を造くるなど治水工事に尽力して領民たちの暮らしと安全を守った。
開拓された豊かな農地からもたらされた作物が、道誉が京都で活躍するための財源となった。

道誉の善政は長きに渡って領民に語り継がれ、戦国時代に織田信長が勝楽寺を焼き討ちした時は、道誉が設置した本尊を領民たちが隠し守ったという。

道誉は自身の肖像画に自筆で

浮き沈みの激しい色々なことがあった人生だった。しかし、私は世間の噂など気にしない。私のすることは理解されなくていい。

と残している。

まさにバサラ大名の筆頭格と言える豪放磊落な人物であった。

 

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コメント

  1. アバター
    • 日本史好きおじさん
    • 2021年 6月 01日 11:56am

    昔NHKの田尾がドラマ「太平記」に陣内孝則が佐々木道誉を演じていました。
    その時は裏切りをしながらも足利尊氏だけは生涯裏切らなかった人物だという感想でした。
    その時には「バサラ大名」という言葉自体が知らず、今回の記事はとてもためになりました。
    彼以外にバサラ大名と呼ばれた武将はいたのですかね?今度はその人を掲載してください。

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    • アバター

      ありがとうございます。他のバサラ了解です😊

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 6月 01日 12:16pm

    NHKの批判をする訳ではないが去年は「明智光秀」今年は「渋沢栄一」、再来年は「徳川家康」。ただ来年は「鎌倉殿の13人・北条義時」と悪い面を出すと脚本の三谷幸喜が言っていたように今回掲載の「佐々木道誉」の人生なんて最高に面白いじゃあないですか?こんな破天荒な人物を主役にした大河ドラマを見たいので、NHK関係者も「草の実堂」さんの記事を参考にすればいいのにと感じました。

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    • アバター

      ありがとうございます。
      意外と知られていない面白い武将ってまだまだたくさんいるんですよね。水野勝成とかも面白そうですし😊

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  3. アバター
    • 戦国・幕末大好き叔父さん
    • 2021年 6月 02日 2:23pm

    戦国時代、当代一の文化人で剣の達人だった文武両道の細川藤孝がいたが、佐々木道誉は主君への裏切り、上皇の弟の寺院に焼き討ちし、その処分で下向する時に遊女を招いて宴会、しかも比叡山を馬鹿にした猿の腰当て、ライバルに対抗するために同じ日により豪華な花見大会を開催して面目を潰すとはまったく驚きに堪えません。
    こんな人物・武将が室町幕府にいたなんて日本史好きだと自負していた自分を恥じました。
    とてもためになりました。面白かったです。

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  4. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 3月 30日 9:24pm

    真田広之さんが尊氏を演じた「太平記」は面白かったなあ。
    陣内孝則さんの道誉役はハマりましたね。

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  5. アバター
    • 名無しさん3
    • 2022年 6月 04日 6:56am

    私も太平記見ていました、この前まで日曜のBSで再放送してました、陣内さんがなんか含みのある芝居をしていたのが、この記事を読んでなんか納得しました。
    俳優もちゃんと調べて演じているんですね。

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