奈良時代、藤原氏は天皇家との縁戚関係を利用して政治の中心に居座り、抵抗勢力との激しいせめぎ合いの中で勝利を収め、その中心人物だった藤原不比等(ふじわらのふひと)は栄華を極めた。
しかし764年、不比等の孫の藤原仲麻呂は乱を起こし、仲麻呂と関係の深かった第47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、孝謙上皇との確執により皇位をはく奪され、廃帝として淡路島に追放された。
明治まで「天皇の諡号」を送られなかった淳仁天皇とは 【淡路廃帝】
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その後、孝謙天皇は、淳仁天皇の後継として重祚し、第48代称徳天皇として即位するものの、皇位継承問題が起こった。
孝謙天皇時代、皇太子であった道祖王(ふなどおう)は廃されており、その後に立太子して即位していた淳仁天皇も追放されたことから、称徳天皇の後継者となる、天武系の男系皇が少なくなっていたのだ。
770年、称徳天皇はついに崩御する。称徳天皇は史上6人目の女性天皇で天武系からの最後の天皇となった。
その後、即位したのは天智天皇の皇統であった白壁王(しらかべおう)であった。
白壁王から光仁天皇へ
白壁王(しらかべおう)は709年、天智天皇の第7皇子であった施基親王(しきしんのう)の第6皇子として生まれた。
752年、白壁王は井上内親王を妃に迎え、2年後の754年に酒人内親王(さかひとないしんのう)が誕生する。
また、761年には他戸親王(おさべおうじ)が誕生する。
このとき、白壁王は52歳と既に高齢であった。
翌762年、白壁王は中納言に昇進し、藤原仲麻呂の乱の後、766年に大納言へと昇進するものの、周囲の親王や王たちは、次々と称徳天皇の政権にて粛清されていった。
白壁王は酒を呑んで日々を過ごすようになったが、平凡で優れた点が無いように装い、粛清から逃れていたという。
770年に称徳天皇が崩御すると、左大臣・藤原永手の一派と、右大臣・吉備真備の一派で皇位継承の論争が起こる。
吉備真備は、天武天皇系の血統から長親王(ながしんのう)の子である智努王(ちぬおう)を押していたが、白壁親王は藤原一族により担がれて立太子されることとなる。
これは、白壁王の妃・井上内親王が称徳天皇の姉であったことから、白壁親王と井上内親王の皇子である他戸親王(おさべしんのう)が天武天皇系の血統でもあることを引き合いに出し、立太子したのである。
こうして770年10月、白壁王は62歳にて第49代光仁天皇として即位した。
井上内親王の呪詛事件と、祟りを恐れた光仁天皇
光仁天皇の即位とともに、妃の井上内親王は同年11月6日に立后された。
その翌年の771年1月には、予定どおり他戸親王を立太子する。
しかし同年、光仁天皇の即位と他戸親王の立太子に尽力した藤原北家の藤原永手が急死してしまう。
北家の永手に代わって実権を握った式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、北家が擁立した他戸親王が即位することを嫌った。
※藤原四家については
南・北・式・京家の祖となった藤原4兄弟
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そして772年、皇后・井上内親王に対して「光仁天皇を呪詛した」という無実の罪を押し付けて廃后し、他戸親王も廃太子となった。
773年1月、他戸親王の代わりとして、光仁天皇の側室・高野新笠(たかののにいがさ)との子である山部親王(やまべしんのう : 後の桓武天皇)が立太子される。
こうして天武天皇系の血筋は途切れ、皇統は天智天皇系へ移ったのである。
この一連の事件については、光仁天皇を擁立し、腹心となっていた式家の藤原良継の弟・藤原百川(ふじわらのももかわ)の暗躍によるものとみられている。
しかしこの呪詛の事件は、ここでは終わらなかった。
773年、同年10月14日に亡くなった光仁天皇の同母姉である難波内親王の死が、呪詛による殺害であるという嫌疑が、再び井上内親王にかかったのである。
その結果、井上内親王と他戸親王は、なんと皇族から庶民に落とされてしまう。
そして、空き家になっていた官僚の邸宅に幽閉されてしまったのである。
775年4月27日、井上廃皇后と他戸親王はそのまま幽閉先で薨去した。
同日に亡くなったことから、自殺か暗殺されたという説が濃厚である。
背景には、山部親王の皇太子としての地位の脆さがあったのではないかとみられている。
山部親王の母・高野新笠は、百済系の渡来氏族の出身であることから身分が低かった。
先の呪詛事件において、朝廷内には追放された他戸親王の復位を求める動きが少なからずあったことから、山部親王を皇太子に推挙した藤原百川たちが、天武・聖武系皇統の排除を徹底して行ったと考えられる。
そしてこの事件の後、不可解な出来事が発生するようになる。
藤原百川の兄弟で参議の藤原蔵下麻呂(ふじわらのくらじまろ)が、井上内親王の死去からわずか2ヶ月後に亡くなったのである。
この急な死去に光仁天皇は「井上内親王の祟りだ」と恐れ、慰霊のために秋篠寺を建立する。
しかしその後、天変地異も頻発し、光仁天皇や山部親王も病に倒れることとなる。
広岡山陵から田原東陵への改葬
光仁天皇は、781年4月に病が深刻化し、山部皇子に譲位し太上天皇となった。
その8ヶ月後の同年12月、病は回復することなく、そのまま光仁天皇は崩御した。
翌年、光仁太上天皇は、広岡山陵(ひろおかのみささぎ)に葬られた。
この広岡山陵は、現在では場所の特定ができていない。
平城京の北部の集落や、山城国の辺りという説もあるが、記録に残っていないのである。
埋葬された4年後の786年、広岡山陵から現在の奈良市日笠町にある田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)へ改葬される。
田原西陵は、光仁天皇の父である施基親王の墓であることから、天智天皇系の天皇陵として墓を近くに移したのではないかとみられている。
田畑に囲まれた美しい円形の森となっており、古来より「王墓」や「王の塚」と呼ばれてきた古墳として、今に残る天皇陵である。
参考文献
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
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