奈良県奈良市にある東大寺。
日本で生まれ育った人であれば、東大寺は誰もが知る寺であろう。
そして東大寺の象徴といえるものが盧舎那仏(るしゃなぶつ)である。
いわゆる「奈良の大仏」であるが、こちらも誰もが知る仏像である。
しかし東大寺がどのような宗派で、どのような位置付けの寺なのか、ということまではあまり知られていないだろう。
今回は東大寺についての概要と、創建から現在までの歴史について紹介したい。
東大寺の概要
東大寺は、奈良時代の仏教宗派で「南都六宗」と呼ばれる宗派の一つである華厳宗(けごんしゅう)の大本山にあたる寺院である。
華厳宗は、中国大乗仏教の宗派のひとつであり「命あるすべてのものの救済」を基礎とする考え方から発展した宗派だ。
東大寺は、第45代聖武天皇が全国に建立させた国分寺の中心である「総国分寺」としても位置付けられている。
聖武天皇に起こった次々の災難
724年、聖武天皇が即位した。
しかし即位以降、日本国内で地震が相次いで起こったのである。
また、日食が多く観測されていたのだが、当時の日食は忌み嫌われていた。
『天子の不徳の致すところ』とされ、時の天皇が良くない政治を行っている象徴とされたのだ。
そのような中、聖武天皇にとってさらに良くないことが次々と起こる。
728年、后の藤原光明子との間に生まれた皇太子が、わずか1年で亡くなってしまう。
729年には長屋王の変が起こり、737年には天然痘の大流行により、大臣や参議であった藤原四兄弟の相次いで亡くなるなど、数多くの災難が次々と発生したのである。
東大寺は、元は皇子を供養した寺だった
聖武天皇は皇太子が亡くなった際に、菩提供養のため若草山山麓に小さな山房を設け、僧侶を住まわせることにした。
それが東大寺の前々身にあたる羂索院(けんさくいん)である。
しばらくして、山の中で鍛錬を重ねていた良弁(ろうべん)という華厳宗の僧が、この羂索院を任されることになる。
良弁は日々鍛錬して修行していたことから「金鐘行者(こんしょうぎょうじゃ)」と呼ばれ、後に羂索院も改名されて金鐘寺(こんしゅじ)となった。
740年、良弁は華厳宗の教えを国内に広めることを目的に、新羅より華厳宗の僧・審祥(しんじょう)を講師として招いた。(※新羅へ留学した学僧という説もある)
審祥は、中国華厳宗の第3祖である法蔵の門下生であり、権威を持った人物であった。
この審祥の教えにより、聖武天皇も華厳宗の影響を大きく受けることになるのである。
数々の災難に見舞われた聖武天皇は、741年に「仏の力による国家安寧」を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を出す。
翌742年、金鐘寺を金光明寺と名を改めさせ、大和国の国分寺とし、全国の国分寺の中心である「総国分寺」と指定した。
この頃の聖武天皇は、5年の間に遷都を何度も繰り返していた。
その中で「仏教による鎮護国家」の象徴として、大仏の造立を指示したのである。
745年に平城京に都を戻して落ち着いたのち、本格的に大仏造立がスタートする。
当初は紫香楽(しがらき)の宮近くに造ろうとしていたが、都が平城京に戻ったことから、総国分寺である金光明寺に大仏が造られることになった。
聖武天皇は「大仏が人々の心のよりどころになってほしい」と願っていたのである。
その頃、仏教は寺院以外では教えを説いてはいけないことになっていた。
つまり、民衆へ仏教を直接布教することは禁止されていたのである。
しかし、行基(ぎょうき)という僧は「本当の仏教は、寺の中だけで学ぶものではない」と考えていた。
行基は民衆の土木作業を手伝ったりしながら階層を問わず広く仏教を広め、次第に影響力を持つようになっていたことから、当時、朝廷から弾圧を受けていた。
しかし、聖武天皇はこの行基を評価し、僧の最高位である大僧正を贈り、大仏造仏の実質的な責任者として迎え入れることにしたのだ。
そして行基はこれまで弾圧を受けていたことを気にもせず、指示に従って大仏造仏を進めた。
大仏造立が始まると、金光明寺は「東大寺」と名が改められた。
そして着工から7年後の752年、ついに大仏が完成する。
大仏開眼の法要は、インド生まれの僧である菩提僊那(ぼだいせんな)を大導師とし招いて執り行われた。
大仏は屋外で造られていたことから、大仏完成後に大仏を安置する大仏殿が作られる。
大仏が大きいこともあり、大仏殿も大がかりな工事となった。
大仏殿は完成するまでに6年かかり、758年に完成するが、聖武天皇は既に崩御した後であった。
完成後、東大寺は奈良時代に栄えた宗派である「南都六宗」の大本山となる。
当時の仏教は、学派のように宗派が分かれていた。
今の日本仏教の宗派とは概念が違っており、当時は一つの寺院で複数の宗派を兼学することが普通だったのである。
東大寺は南都六宗の全ての宗派を学べる寺であったことから、奈良時代には「六宗兼学の寺」と呼ばれていた。
さらに平安時代になると、空海の真言宗、最澄の天台宗も加わったことで、「八宗兼学の寺」と呼ばれるようになった。
後に寺院ごとで宗派に属するようになったことで、東大寺は華厳宗の総本山となったのである。
参考 :
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・奈良市観光協会
聖武天皇はいつなくなった