※前田慶次郎の錦絵
歴史好きでなくとも、今や前田慶次 の名を知らぬものは少ないだろう。
隆慶一郎作の歴史小説「一夢庵風流記」を原作として、原哲夫により漫画化された『花の慶次 -雲のかなたに-』は大ヒットとなった。
何かと生きづらい戦国の世において、自由に生きる姿は読者を魅了した。
そのモデルとなった前田利益(まえだとします)とは、いったいどのような武将であったのか?
フィクションで知る前田慶次との違いを調べてみた。
前田利益
まずは、この男の名前について話さなくてはならない。
現在良く知られている「前田慶次」の名は通称であり、隆慶一郎の「一夢庵風流記」でも慶次郎とされているが、幾度かの改名や別名を使っており前田利益も本名だと断定できる資料がない。本人自筆のものでは啓二郎、慶次、利貞のみである。
また浪人時代は「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗るなど、かなりの「かぶき者」だったことが伺える。
かぶき者とは、傾奇者とも書き、派手な格好をして常識にとらわれない行動をするものを指す。
織田信長や前田利家も若い頃はかぶき者だったといわれており、この時代におけるアイデンティティーの一種だった。そんな慶次も加賀藩の武将だった時期がある。加賀百万石を治めた前田利家の兄、前田利久の養子として金沢で過ごしていた。つまり、前田利家の甥に当たるが、養父である前田利久の死後は利家との折り合いが悪く出奔したとされている。
なお、ここでは混乱を避けるために、彼の呼び名は前田慶次で統一する。
前田慶次の生きた時代
※金沢城・三の丸
そもそも慶次についての確かな資料があまりに少ないために、その生涯を追うのは難しい。まずは彼が生きたとされる時代背景を見てみよう。
生誕は、天文2年(1533年)とする説、天文元年(1532年)~天文10年(1541年)とする説があり、死没も慶長10年11月9日(1605年12月18日)とする説と、慶長17年6月4日(1612年7月2日)とする説がある。いずれにせよ、戦国時代中期から江戸時代初期の人物であると思われる。
慶次が歴史の表舞台に出ることは少ないが、天正9年(1581年)頃には、信長の元で累進し能登国一国を領する大名となった利家を頼り仕える事になる。しかし、その翌年に本能寺の変が起きた。これにより豊臣秀吉が権力を握ると、天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まる。利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので慶次もこれに従い、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かった事により慶次もまたこれに随行した。
慶次が前田家を出奔したのはこの後といわれている。慶次にはこのときすでに妻子がいたが、随行はしていない。妻子の身の置き場がなくなるのを案じたのだろう。
その後は京都で浪人生活を送りながら、多数の文人と交流した。和歌や漢詩などの学問にも優れ、武士としての一流のたしなみも身につけた上で、あえてかぶき者として振舞っていたのだ。
後に上杉景勝が越後から会津120万石に移封された慶長3年(1598年)から、関ヶ原の戦いが起こった慶長5年1600年までの間に上杉家に仕官し、その後は生涯を上杉とともに過ごしている。
かぶき者の逸話
※檜風呂
慶次の逸話は多くあるが中でも有名なのが「風呂」の話だろう。
慶次には常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖があり、それを叔父の利家から度々教訓されていた。それに対する答えとして、
「これからは心を入れ替え、真面目に生きるつもりでございます。つきましては茶を一服もてなしたいので自宅に来て頂きたいと思います。」
と申し入れた。
それを受けた利家だったが、慶次の家は冬だというのに障子もふすまも開けられており、たいそう冷えていた。すると慶次は、
「今日は寒かったので、茶の前にお風呂はどうでしょうか?」
と利家に勧める。衣を脱いで喜ぶ利家をじらすように湯加減を見ていた慶次だったが、
「丁度良い湯加減です」
と言いその場を去った。利家がそれを聞き湯船に入ると氷のような冷水であった。これには利家もたいそう怒ったというのが有名な水風呂の話だ。
しかし、初出は江戸時代後期の随筆集『翁草』であり信憑性は低い。また翁草では「利家が浴室にむかうと」との記述であったが、後年『常山紀談』などで「湯船に入ると」に脚色されている。
また、利家自身の性格も漫画などでは「慶次を邪魔者扱いする小心者」として描かれているが、実際には温厚で頭脳明晰な男であった。豊臣政権では諸大名の連絡役などを務めたこともあり、多くの者達に慕われたという。秀吉自身も「律義者」として認めている。
さらに金の大切さも身をもって知っており、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。そのため、北条家滅亡後に家来を養えず困っている多くの大名に金を貸しており、遺言においては「こちらから借金の催促はしてやるな、返せない奴の借金はなかったことにしてやれ」と息子の利長に命じている事実が存在する。
このような事実から、慶次にまつわる逸話も多くが創作だと思われる。
直江兼続との出会い
※直江兼続の肖像画
かぶき者だった慶次がただ1人「生涯の友」「莫逆(ばくぎゃく/意気投合してきわめて親しい間柄)の友」と呼ぶ直江兼続と出会ったのは、京での滞在中といわれている。以前から大阪の豊臣家と越後の上杉家の中間に加賀の前田家が位置しており、前田家はその交渉窓口という立場にあったため、上杉・前田両家の関係は極めて良好だった。そのため、以前から互いの人となりは耳に入っていたようだ。
直江兼続はNHKの大河ドラマ「天地人」の主人公でもあり、どのような人物か知っている人も多いと思う。若くして上杉家の内政・外交の取次のほとんどを担うようになり、当時の上杉家臣たちは景勝を「殿様」「上様」、兼続を「旦那」と敬称していた。
しかし、慶次と兼続の出会いについては劇的なエピソードはない。
意気投合したことは事実だったにせよ、実際に慶次が魅かれたのは兼続の主である上杉景勝であった。そのため、日頃から嫌っていた仕官を、兼続を通じて景勝に求めたのである。
※上杉景勝
景勝は、御館(おたて)の乱を征し、乱れていた越後を平定して上杉謙信の後継者となった。織田信長とも戦い、豊臣秀吉からは厚い信頼を受けた男である。そのような男ならばと慶次も魅かれたのだ。文武で己を凌ぐ人物として直江兼続とは友情を深め生涯の友として、また謙信以来の武と信義を誇る上杉景勝を主君として仰いだと言われている。
慶次は、高禄で召抱えようという諸大名の誘いを拒絶し、「わが主君と思えるのは、大剛の景勝公のみである」といい、禄わずか五〇〇石で上杉家に残留した。その終りは、米沢城下、あるいは大和国で余生を静かに送ったともあり、一定しない。
※伝前田利益所用 紫糸威朱漆塗五枚胴具足
最後に
前田慶次という男は、あまりにその素顔が見えてこない。だからこそ、フィクションの主人公としては格好の人物なのだが、残されている話からその輪郭は見えた。
若き頃は、血気盛んで怖いもの無しのかぶき者として名を上げるも、歳とともに武士の正道を目指すようになる。そこで出会ったのが直江兼続であり、その縁で上杉景勝に仕官することもできた。現代においても、やんちゃだった若者が、ビジネスで成功する例は数多くある。そう考えると特に目立つような武将ではなかった。
我が道を自由に進むことができなかった時代において、慶次はそれを成し遂げたことにより、人々から注目されたということだ。
(上杉景勝・御館の乱については「上杉景虎について調べてみた」を参照)
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