室町時代

北条早雲 56歳から乱世に身を投じた天才武将【戦国時代最初の大名】

人生50年といわれた時代。その男はもはや老人といっていい年代だった。

僧となっていた男は、56歳にして乱世に身を投じる。相手は関東の足利一門と関東管領。男はわずかな手勢で次々と城を奪っていった。

その男の名は伊勢新九郎こと「北条早雲(ほうじょうそううん)」である。

伊勢新九郎

北条早雲
【※北条早雲】

生まれは伊勢の素浪人

多くはそのように思われている北条早雲だが、実際にはその正反対の人物だったことが近年の研究で分かってきた。

早雲は備中国荏原荘(えばらのしょう)、現在の岡山県の井原市の領主・伊勢盛定(いせもりさだ)の子、新九郎(しんくろう)として生まれる。伊勢氏は名門・平氏の流れを組み、武家の作法を司ってきた由緒ある家柄だった。

京の本家では将軍家に礼儀作法を教えるほどで、分家とはいえ早雲も高い教養の持ち主であった。上洛した早雲は、将軍の弟・足利義視(よしみ)に仕えたが、ここで未曾有の大乱「応仁の乱」を目の当たりにする。戦火に加え、食糧不足などによって民衆が苦しむ一方、幕府はなんら手を打とうとはせず、家督争いに明け暮れるばかりであった。

こうして、早雲は30代後半で幕府を去ったと思われる。

戦国への狼煙

北条早雲

40代で出家して僧侶となった早雲は、京都の禅寺で修行三昧の日々を送った。

だが、「人生50年」といわれたこの時代に、老境に差し掛かっていた早雲はいずこかへと姿を消したのである。その後の行方は56歳で武将となるまでようとして知れなかったが、近年の研究により一度は見限った幕府に復帰していた。その理由は不明だが、さらに1487年(長享元年)には、再び幕府を後にして駿河に向かう。

早雲は、駿河守護の今川家で深刻な御家騒動があり、守護の名代として国を支配していた小鹿範満(おしかのりみつ)には人望がないという情報を得ていた。早雲は、範満に不満を持つ駿河の領主たちを率いて、館を襲撃。範満を殺害すると、対立していた先代の守護の息子を当主に据える。

「周到な情報収集」と「電光石火の奇襲」は、この後も早雲の常套手段となった。

領土拡大

早雲は、範満を討った功績を認められ、駿河の東の端にある「興国寺城(こうこくじじょう)」を与えられる。隣国の伊豆には足利政知(あしかがまさとも)が居を構える最前線であった。

当時、城の多くは館が置かれただけのものだったが、興国寺城は小高い山の上にあり、周囲は空堀で守られ、視界も広い「城塞」である。周囲には沼地が広がり、敵の進軍を阻む。この堅牢な守りが特徴であった。


【※興国寺城空堀】

1493年(明応2年)、早雲はわずかな手勢と共に隣国の足利館に夜襲をかける。

2年前、足利家では深刻な跡目争いが起きていたことを察知していたのだ。瞬く間に館を滅ぼした早雲は、武士だけでなく、女子供、僧まで1,000人以上を皆殺しにして、その首を城の塀にぶら下げたという。早雲は民の暮らしに背を向けて、跡目争いを繰り返し、幕府の権威を振りかざすばかりの足利一族に苛烈極まりない態度で臨んだのである。

小田原攻め

北条早雲
【※小田原城】

一方で、早雲は民衆が戦で苦しむことを嫌っていた。

降伏を申し出た領主には、それを認めてもとの領地を与え、自らの軍は厳しく律して略奪行為などは厳しく禁じている。いたずらに長引き、民を苦しめた応仁の乱を見てきた早雲だからこそ、民を生かす政治を望んでいた。こうして、60歳にして早雲は伊豆統一を果たす。

一国の主となった早雲は、次の目標を箱根を越えて小田原に定めた。交通の要衝として、重要な拠点である。ここでも早雲は、得意の情報戦を用いた。小田原に間者(密偵)を放ったのだ。そこで判明したのは「小田原城の守りは堅いが、城主はまだ若い」ということ。そこで、歳月をかけて小田原に甘い言葉を連ねた書状や、贈り物を送り、すっかり城主の信用を勝ち取る。そして、小田原方が油断しきったところで、一気に攻め入り、難なくこれを陥落させてしまったのだ。

小田原城を奪った早雲は相模(現・神奈川県)の西半分を勢力に収めることとなる。時に早雲65歳であった。

打倒上杉軍

1496年(明応5年)、小田原城を落とした早雲に対し、関東管領の大軍が小田原に攻め入ってきた。その数、およそ3,000。

対する早雲の手勢は数百。その戦力差は如何ともしがたく、早雲は大敗。管領軍は一度は兵を退くものの、早雲にとっては厳しい事態となる。

しかし、このとき早雲は関東管領・上杉氏の滅亡と己の勝利を確信していた。

つらつらと上杉家を見ていると、一代ごとに家の良い作法を五ヶ条、十ヶ条と失っている。彼らはこの先すべてを失うだろう」と、早雲は上杉家が退廃に向かっているのを読み、上杉家の圧迫に耐えながら、国力の増強に取り組む。戦国時代初の検地を行い、年貢による収入を安定させ、商業の振興を奨励した。さらに財政が安定すると年貢の引き下げまで行い、他国の農民にまでその善政は知れ渡ったという。その結果、他国から早雲の下に馳せ参じた農民を足軽として取立て、時に同じ飯を食い、少ない酒を水で薄めて皆で分かち合った。こうした庶民と同じ目線を持つことが早雲の魅力である。

己が国の充実を待つこと、実に16年。遂に関東管領の軍と戦うことに決めた。

時に早雲、82歳。

朱印状の発給

北条早雲

【※箱根・早雲寺の北条五代の墓。右端が早雲の墓】

決戦の地は、相模国の中央に位置する岡崎であった。

状況は16年前とは一変し、早雲を慕う領民や領主たちにより、兵力は2,000にまでなったのである。敵と味方の兵力はほぼ互角であったが、最後に物を言ったのは早雲が得意とする奇襲攻撃だった。

未明、まだ夜も空けきらない上杉軍に奇襲をかけた早雲の軍は、相手を総崩れにする。遂に上杉方に完全勝利した早雲は、その後、3年をかけて相模国を平定した。早雲、85歳にして相模を完全な支配下に置いたのだ。

2年後、早雲は室町幕府に対する独立宣言を発する。

1518年(永正15年)10月8日、早雲は領国の村々に朱印状の発給を行った。自らが主となり領国を治めてゆく意思を表したのである。朱印状には「禄寿応隠(ろくじゅおういん)」の文字が使われた。領民が平和に、そして豊かに暮らせるようにとの意味である。

関東の地に室町幕府から独立した最初の戦国大名が誕生した瞬間であった。

その後、家督を息子・氏綱(うじつな)に譲った早雲は、伊豆の地で余生を送ったとされる。伊豆・相模2ヶ国の領主となった早雲だったが、朝廷からは一切の官位を受けず、自らの生い立ちについても他人の語るままにしていた。伊勢の素浪人と呼ばれた由縁である。

この男の出現により、世は戦国時代に突入する。それを見届けることなく、早雲はこの世を去った。

享年88。虚栄よりも真実を貴んだ男であった。

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関連記事:応仁の乱
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