タイ捨流の祖
丸目長恵(まるめながよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた剣豪です。「剣聖」とも称された上泉信綱に師事し、その四天王の一人と目される高弟となった人物です。
長恵は信綱が創始した「新陰流」とは別となる流派・「タイ捨流」(タイシャリュウ)を起こして広く九州に門弟を持つに至りました。
その門弟の中には武勇に秀でた武将・大名の立花宗茂や鍋島直正らの名もあり、長恵自身が仕えた相良家中に留まらず多くの大名家で学ばれる剣術となりました。
剣術「タイ捨流」の祖としては成功を収めたと言える長恵でしたが、武士としては大きな武功を挙げられず、むしろ失敗して、長い不遇の期間を過ごした人物でした。
新陰流の修得
長恵は天文9年(1540年)に、その時代には相良氏の領国であった肥後国八代郡に生まれたとされています。
父と共に弘治元年(1555年)の薩摩との戦に初陣を飾り、その時の武功から「丸目」の姓を賜ったとされています。
その後、長恵は永禄元年(1558年)に上洛し、新陰流創始者の上泉信綱に師事して剣を学びました。
ここで3年の修業の後に、その門下の四天王に数えられるまでの技量を身に着けました。
この頃、師である信綱が室町将軍・足利義輝に引見され、その御前で剣技を披露したとされています。このとき長恵は相手役を務め、更に正親町天皇へも同様の天覧を行ったと伝えられています。この後一旦肥後国八代へと戻った長恵は相良家において新陰流を指南したとされています。
永禄10年(1567年)に長恵は信綱から「殺人刀太刀」・「活人剣太刀」の印可状を与えられたと伝えられています。
戦での失策
その後、長恵は永禄12年(1569年)に相良義陽に帰参し、薩摩大口城の守備にあたりました。
ここで長恵は敵将・島津家久の計略に嵌められてしまい、結果大口城を陥落させられてしまいます。このことで義陽の勘気に触れた長恵は「逼塞」という重い処分を科され、以後17年に渡って赦されなかったと伝えられています。
しかしこの間に長恵は、九州内で他流派を打ち負かし、信綱から西国における「新陰流」の教授を任されました。信綱の没後は、修練の末に自ら「タイ捨流」を創始しました。
この後、天正15年(1587年)にようやく勘気を解かれた長恵は相良氏に再び出仕し、「タイ捨流」剣術の指南役として117石を領したとされています。
家康の裁定
長恵が「新陰流」を名乗らず「タイ捨流」を創始したのは、一説には「新陰流」を継承した柳生宗厳を憚ったためとも、甲冑を纏った武者に対する新しい流儀として確立したためとも言われています。
関ヶ原の戦いにおいて、長恵の主君・相良頼房は東軍に与して本領を安堵され、肥後人吉藩2万石を立藩しました。
一方、柳生家では柳生宗矩(宗厳の五男)が徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され、更に初代大目付となって大和柳生藩の大名へと列せられていました。
これに比して、相良藩のわずか117石の碌に留まっていた長恵はその境遇の払拭を意図してか、江戸へ上って宗矩に勝負を申込んだと言われています。
しかし大名ともなった宗矩は当然そのような誘いに応じなかったこともあり、この状況を憂えた徳川家康が「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」との裁定を伝えたとも言われています。
才人としての 丸目長恵
長恵は、隠居後は徹斎を号し、70歳以後には私財をも投じて水路を整備し、田畑の開墾に勤しんだとされています。
武は剣術だけでなく槍、薙刀、手裏剣など複数を極めた達人であり、文は書を門跡寺院青蓮院宮の御免筆にて、歌道でも源氏物語、古今和歌集を伝授するなど、多彩を極めた才人でした。
尚、当時のイエズス会宣教師には「パウロ・マルモ」と呼ばれて、本部のイエズス会総長に「医者、文化人、剣豪」として紹介されています。
これは長恵が、宣教師兼外科医であったアルメイダ神父から医学を学んだためと考えられており、健康長寿を目指した「保寿剣」を提唱して、自らも寛永6年(1629年)90歳という長寿を全うしました。
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