白頭巾も創作
大谷吉継(おおたによしつぐ)は、石田三成と徳川家康とが争った関ケ原の合戦において家康と懇意であったにも関わらず三成に味方した武将です。
吉継は三成方には分がない事を事を十分承知の上で、敢えて三成に与したとされています。
関ケ原で吉継は西軍の主力の一角として、小早川勢の裏切りも想定して善戦しました。しかしそれに続いて寝返った勢力の攻撃を受けて最後は自刃して果てたとされています。
吉継は癩病(ハンセン病)に罹患しており、白い頭巾で顔を覆っていたとのイメージが強いようですが、これも後の江戸期の軍着物の創作らしく定かではないようです。
秀吉の天下取りに貢献
吉継は生年に関しても、永禄8年(1565年)もしくは永禄2年(1559年)とされており、さらに出自にも諸説があり、謎の多い武将です。
母方が豊臣秀吉の縁戚にあったらしく、その縁から秀吉の小姓として出仕したものとも伝えられています。
吉継は、天正5年(1577年)10月の秀吉による中国攻めにはその名が確認され、馬廻り衆の1人として従っています。
織田信長の死後、秀吉が柴田勝家と争った天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて吉継は、長浜城の柴田勝豊に対する調略を成功させて、更に合戦でも賤ケ岳の七本槍に継ぐ武功を挙げたと伝えられています。
大谷吉継 大名への登用
吉継は天正17年(1589年)に越前の敦賀郡2万余を拝領して敦賀城主となり、大名に列せられました。さらに翌年にも加増されて合計5万石を治めたとされています。
続く文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵において、吉継は船奉行を務め船舶の手配から兵站業務などの後方支援や、軍監としても渡海して現地の管理にあたりました。
その後の文禄3年(1594年)に草津への湯治に出掛けた吉継は、上杉家の直江兼続に宛てた書状の中で、自身が目を患っていることを記しており、このことが後年の軍着物などでの白頭巾の姿に投影されたものではないかと思われます。
西軍への鞍替え
秀吉の没後、吉継は家康と誼を通じていたこともあり、慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉討伐を決定すると、それに従軍するため領国の敦賀から兵を率いて出陣しました。
その途上にあった三成の居城・佐和山城に立ち寄った吉継は、三成から上杉と呼応して家康打倒の兵を挙げる計画を告げられました。
家康の優位を確信していた吉継は、三成に翻意を促しますが聞き入れられず、止む無く不利を承知で三成方に与したとされています。
前田勢への牽制
吉継はその後、一旦領国の敦賀に戻ると丹羽長重や上田重安らを西軍に引き入れ、加賀の前田勢に対して流言を拡散して参戦を遅らせる工作を行いました。
これは前田利長が大軍を率いて出陣した際に、海から敵が上陸したとの虚報を流して前田勢の動きを封じたものでした。
実際この虚報に惑わされた前田勢は関ケ原に参戦することは出来ず、結果敗れたとはいえ、東軍の大きな戦力を削ぐことに成功しました。
味方の相次ぐ寝返り
吉継は、慶長5年(1600年)9月15日の関ケ原の合戦において、東軍の藤堂・京極勢を相手に善戦をしました。
予め小早川勢の裏切りを予見していた吉継は、その攻撃を一旦は防ぎましたが東軍優位と見た配下の脇坂、朽木、小川、赤座勢が寝返ったことで一気に押し込まれ、敗北を悟ると自刃して果てました。
開戦から奮闘を続けた吉継勢の壊滅が西軍全体に与えた影響は大きく、わずか半日で東軍が勝利を収めることになりました。
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