「内助の功」と強運
山内一豊(やまうちかつとよ)は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将で、正室・見性院の「内助の功」がつとに知られた人物です。
その見性院の機転もあり、最終的には土佐一国を領する大名となった一豊ですが、そこに至るまでには地味ながらも着実な歩みがありました。
武将としては遅咲きながら、ある種の強運に恵まれたといえる一豊の生涯を調べてみました。
信長から秀吉の直臣へ
一豊は、天文14年(1545年)若しくはその翌年に山内盛豊の三男として尾張に生まれたとされています。
父・盛豊は信長と対立していた岩倉織田家の重臣でしたが、信長勢に主家を滅ぼされ一家は離散したと伝えられています。
その後一豊は、永禄11年(1568年)頃に信長に仕えることになったとされ、その命で秀吉の配下の与力を務めました。
その縁で後に秀吉の直臣となった一豊は、元亀元年(1570年)9月の浅井・朝倉と織田・徳川勢が争った「姉川の戦い」で当時としてかなり遅い初陣を飾りました。
見性院との婚儀
一豊は続く天正元年(1573年)8月、朝倉勢との「刀禰坂の戦い」に従軍し、敵の矢が顔面に刺さりつつも敵将の三段崎勘右衛門を討ち取る殊勲を挙げました。この功により秀吉から400石を領しました。
この頃に一豊は後の見性院(千代若しくはまつ)と婚儀を行っています。
更に秀吉の出世に伴い、一豊も天正5年(1577年)に播磨に2000石を与えられます。
巷説としてよく知られている「内助の功」の一つ、見性院が蓄えを使って名馬を一豊に求めさせ、面目を施したのもこの年の出来事と伝えられています。
豊臣の大名への登用
一豊は、天正11年(1583年)に秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」においても伊勢亀山城攻略に際して一番槍の武功を立てました。
続く翌天正12年(1584年)の家康・織田信雄との「小牧・長久手の戦い」では家康勢に対する砦の構築などに貢献したとされています。
一豊はこの後の四国征伐を経て、秀吉の後継者となっていた豊臣秀次付きの宿老のひとりに任じられました。
これにより一豊は、天正13年(1585年)に若狭国の高浜城主となり、さらに近江長浜城主となって2万石を領する大名へと列せられることになりました。
山内一豊 の強運
一豊は天正18年(1590年)に秀吉の小田原・北条攻めに従軍し、家康が北条の旧領・関東に移封されたことで、遠江の掛川城・5万1000石を拝領しました。
一豊の強運は、この後の出来事に発揮されます。ひとつ目は朝鮮出兵で、後方支援にあてられたことから渡海せずに済んだことでした。
そして二つ目が、秀次付きの宿老でありながら処罰を免れたことでした。文禄4年(1595年)に秀次は謀反を理由に切腹させられ、他の宿老は処分されたものもありましが、一豊は事なきを得ました。
土佐20万石の大名へ
秀吉が没した後、慶長5年(1600年)に家康が会津・上杉討伐を決定すると一豊もそれに従軍しました。
このときに石田三成らが上杉と呼応して上方で兵を挙げました。こうしてどちらの陣営に与するかの選択を迫られた一豊は、小山で行われた軍議においていち早く徳川に付くことを明言し、尚且つ自身の掛川城を家康に提供することを申し出ました。
この行動が諸将を徳川に味方させる呼び水となったことを評価された一豊は、関ヶ原の戦いの後の論功行賞で、土佐一国9万8,000石を与えられることになりました。
土佐は後の石高直しで20万石を超え、ここに一豊は掛川から大幅な加増を受けることとなったのでした。
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