上杉氏3代に仕えた 柿崎景家
柿崎景家(かきざきかげいえ)は、武門の誉れ高き越後の上杉氏(元の長尾氏)にあって上杉四天王の一人にも数えられた武将です。
歴戦の強者揃いの上杉氏家臣団にあっても、常に先陣を務めたと伝えられている景家は遠く他国にまでその武名を知られた、剛勇の将であったと伝えられています。
上杉謙信の父・長尾為景、その子・晴景、更にその弟であった上杉謙信(長尾景虎)の3代にわたって仕えた景家ですが、謎に満ちたの最期を迎えた人物でもありました。
外交折衝も担当
景家はその生年から諸説がありますが、通説では永正10年(1513年)に越後の国人・柿崎利家の子として生受けたと伝えられています。
合戦における景家は上杉勢の先鋒を務め、率いた兵たちは黒装束を身にまとった出で立ちであったと言われています。
景家はこの黒い軍勢を指揮して数々の武功を挙げ、対峙した敵兵はその名を聞いただけで逃げ出す者もいたと言います。しかし景家は武勇だけではなく、他国との外交も担ったとされています。実現はしなかったものの、当時の伊達氏と上杉氏との養子縁組の折衝を行ったことなどが伝えられています。
第四次川中島合戦
永禄4年(1561年)にそれまでも3度戦った謙信と武田信玄との4度目となる川中島の合戦が発生しました。この合戦はそれまでの中でも最大の激闘と言われ、このときも景家は上杉勢の先陣を務めました。
この戦いは巷説では武田の軍師・山本勘助が献策した 啄木鳥の戦法(※武田勢を2隊に分けて別動隊で上杉軍の背後を突こうとした作戦)を見抜いた謙信が、信玄率いる武田軍本体に対し霧に紛れて接近して武田勢への奇襲を仕掛けたと伝えられている合戦です。
この合戦での景家の軍勢は件の黒装束に身を包み、上杉勢の先陣を切って武田信玄の実弟・信繁の軍勢に猛攻をかけたとされています。また巷説では、このときに自らの献策が失敗に終わった山本勘助が上杉勢に決死の突撃を敢行し、これを討ち取ったもが景家の手勢だったとも言われています。
合戦自体は、武田の別動隊が引き返してきたため、包囲されることを恐れた謙信が兵を引き、前半は上杉、後半は武田が優勢だった事から両軍がそれぞれ勝ちを宣言したものの、実情は痛み分けという結果と考えられています。
越相同盟の締結
景家は、1570年(元亀元年)に北条氏と上杉氏との和睦の交渉役を務めました。
このときに結ばれた越相同盟では北条の当主・氏康の子である三郎を上杉謙信の養子とし、実子のなかった謙信に代わって景家の子である晴家が北条への人質として送られることになりました。
如何に謙信に実子がいなかったとはいえ、自らの子をもって人質交換を成功させたことからも、景家が上杉氏の重鎮として他家からも求められる存在であったことを物語る逸話となっています。
事実、上杉氏家臣団における景家の序列は高く、謙信が関東管領を引き継いだ際の儀式では斎藤朝信と並んで太刀持ちを務めた程でした。
誅殺説の真偽
景家は、天正2年(1574年)に享年62で病死したとされています。しかし一部の巷説ではこの死について実は景家は謙信に誅殺されたとも伝えられています。
これは景家が所有していた馬を京で売りに出し他際に、織田信長それが購入し、信長が売主であった景家に対して礼状と礼品を届けたことを、景家が謙信への報告を怠ったことが原因とされています。
この時上杉と織田は直接的な対立関係ではなかったものの、室町幕府の関東管領を継承した立場の上杉からすれば、室町幕府を蔑ろにしつつあった織田とはいずれ争うことが避けられない状況と言えた為でした。
そうした関係にあった信長に対する景家の態度が上杉家中において内通を疑う声となり、やがてそれが謙信の知ることろとなって誅殺されたとする説として伝えられています。
しかし柿崎氏は晴家の子・憲家が家督を相続して謙信没後の御館の乱以降も続いていることから、景家誅殺説には疑問符が付けられており、後世の創作とする見方が一般的なようです。
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