丸目蔵人とは
柳生新陰流の柳生宗矩に試合を挑み、自分の流派が本当の新陰流だと証明しようとした男が丸目蔵人(まるめくらんど)である。(※本名は丸目長恵)
剣聖・上泉信綱の弟子で四天王として名を馳せた彼の打太刀は「天下の重宝」と称賛されるほどであった。
「兵法天下一」の高札を掲げて真剣勝負の挑戦者を待ったが、誰も現れなかったという逸話がある。
立花宗茂・大友宗麟・鍋島直茂にもその技を授けたタイ捨流兵法の流祖、剣豪・丸目蔵人について追っていく。
生い立ち
丸目蔵人は天文9年(1540年)肥後国八代(現在の熊本県人吉市)の領主・相良氏に仕える丸目与三右衛門慰の長男として生まれる。
戦国時代真っただ中の九州で相良氏は、南からは薩摩の島津氏、北からは大友氏と絶えず戦を繰り返していた。
蔵人は幼い時から下の2人の弟たちと剣術を学び、弘治元年(1555年)16歳の時に薩摩島津氏との大畑の戦いで初陣を飾り、父と共に武功を挙げて「丸目」の姓を与えられる。
17歳になると天草伊豆守のもとで剣術「中条流」を学び、19歳になると供を連れて京都へ武者修行の旅に出る。
上泉信綱との出会い
その時、京都には剣聖として名高い新陰流の創始者「上泉信綱」がいて、蔵人は自分の実力を試すために信綱に試合を挑んだ。
初陣で武功を挙げて天狗になった19歳の若武者に、信綱は新陰流だけが用いていた「袋竹刀」を渡して「これで試合をする」と言った。
袋竹刀は相手を傷つけずに試合を行う物で、立ち合いを所望する兵法者が多い新陰流ならではの物であった。
怪しみながらも袋竹刀を手に取って信綱と立ち合うが、あっという間に面2本を軽く取られてしまう。3本目になると袋竹刀を使ってはもらえず、体当たりで吹っ飛ばされてしまった。
圧倒的な信綱の強さに感服した蔵人は、その場で入門を懇願するのである。
新陰流四天王
入門を許された蔵人は、新陰流の稽古に没頭して持ち前の剣術の才を見せ、疋田豊五郎・神後宗治・奥山公重と蔵人を合わせて、伊勢守門下(新陰流)の四天王に数えられるまでになった。
永禄7年(1564年)上泉信綱が足利幕府第13代将軍・足利義輝の御前で上覧演舞をした時は信綱の打太刀を務め、その見事さに信綱の兵法は「天下一」、蔵人の打太刀は「天下の重宝」と将軍から感状を賜る程であった。
正親町天皇の御前でも信綱の打太刀を務め褒め称えられている。
蔵人は相良家で新陰流の指南するために一旦帰郷する。そして永禄9年(1566年)再び新陰流を学ぶために、弟子の丸目寿斎・丸目喜兵衛・木野九郎右衛門を伴い上洛する。
残念ながら師の信綱はもう京にはいなかったので、愛宕山・誓願寺・清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑むが、名乗り出る者は誰一人いなかった。
永禄10年(1567年)京に戻った信綱は「兵法天下一」の高札の一件を知り、蔵人に「殺人刀太刀(せつにんとうたち)」「活人剣太刀(かつじんけんたち)」の許可状(新陰流免許皆伝)を授けた。
戦での失態
その後、蔵人は再び相良家に仕えるために帰郷して家臣として働くが、永禄12年(1569年)薩摩の島津家久が相良氏を攻めた大口城での戦いで、相手方の策に乗った蔵人の主張のせいで多くの兵を失い、大口城は落城してしまう。
敗戦後に蔵人は主君・相良義陽(さがらよしひ)からその責を負わされ、逼塞(ひっそく:門を閉ざし昼間の出入り禁止)という処罰が下り、武士としての出世の道が途絶えてしまった。
その後の戦いで2度の目覚ましい武功を挙げるが、主君にお目通りさえもかなわなかった。
そこで蔵人は兵法者として生きる道を選び修業に専念して、九州一円の他流派の兵法者たちと試合をして勝ち続ける。
それを知った信綱から西国での新陰流の教授を任せられるのであった。
上泉信綱の死
かつて蔵人の弟子であった有瀬外記という者が、信綱のいる関東に行って信綱の直弟子になっていた。
信綱は有瀬外記に「蔵人に更に工夫した新陰流を伝えるように」と申し送る。
その後、帰郷した有瀬外記は蔵人に工夫した新陰流を伝えようとしたが、蔵人はかつての弟子から学ぶことを嫌って聞く耳を持たなかった。
しかし、工夫した新陰流が気になっていた蔵人は、信綱から直接学ぼうと関東に向かう。
蔵人が関東に着くと、師の信綱は残念ながらもう亡くなっていた。
落胆した蔵人は帰郷して今まで以上に鍛錬に励み、数年後には自らの流派タイ捨流(たいしゃりゅう)を立ち上げる。
タイ捨流の創始
タイ捨流は新陰流を基礎として、インド・中国・日本の三国それぞれに古くから伝わる武道と、自ら実践で培った技とを組み合わせて完成させた流派である。
タイ捨流の「タイ」という言葉には「大・体・待・対・太」などの複数の漢字が当てはまる。
「大」は蔵人の師・上泉信綱の死後「偉大な師を失った」という意味がある。
「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つことを捨てるにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至るという意味が含まれる。
タイ捨流はこれら全ての雑念を捨て去り、ひとつの言葉にとらわれない自在の剣法である。
技の特徴は独特の構えにあって、右半開に始まり左半開に終わる。全て袈裟斬り(肩から斜めに切り落とす)で終結するが、飛びかかり飛廻って相手を撹乱して打つ技、刀と蹴技・関節技・目潰しを組み合わせた技などを用いる。
「新陰タイ捨流」として九州一円に広まり、柳川藩主・立花宗茂や豊後国主・大友宗麟、筑後山下城主・蒲池鑑広、鍋島直茂ら大名たちにも教えている。
門下生は相良家の家臣たちにとどまらず、他家からも多くの門人が訪れた。
上泉信綱が創始した「新陰流」は弟子によって進化を遂げ、柳生石舟斎の息子・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が将軍家剣術指南役となったことで「東の柳生」「西の丸目」と並び称された。
蔵人はタイ捨流が強いことを証明するために柳生宗矩に試合を挑んだが、宗矩は「竜虎相搏つは非、天下を二分せん」と蔵人を説得して試合は行われなかった。
丸目蔵人の晩年
天正15年(1587年)になると、蔵人は相良氏から許され、タイ捨流の剣術指南として117石を与えられた。
蔵人の武術は剣にとどまらず槍・薙刀・手裏剣・馬術・忍術など20以上の奥義に達し、多くの門下生の中には後に示現流の開祖・東郷重位(とうごうちゅうい)らが居る。
晩年は剃髪して石見入道徹斎と号して切原野(現在の熊本県錦町)に隠居する。そこで村人と共に山野を開拓して田畑や水路を作ったとされる。
武芸以外にも書・和歌・乱舞・笛などを好み、特に書は門跡寺院青蓮院宮の御免筆(免許を受けた者)の腕前だった。
また、宣教師の神父から西洋医学を学び、自ら健康法の「保寿剣」を考案し、それを実践して89歳まで生きた。
根っからの剣豪
丸目蔵人は剣聖・上泉信綱に心酔し新陰流の免許皆伝となったが、自分の門下生から新たな工夫を加えた新陰流を学ぶことを嫌がったために、結果として唯一無二の流派「タイ捨流」が生まれた。
新陰流は同じ弟子の柳生石舟斎に継承されたので、将軍家指南役の息子・柳生宗矩に試合を挑んだという、まさに根っからの剣豪・兵法者であった。
29歳の宮本武蔵が、73歳になった丸目蔵人に教えを請いに来た時に、二刀の型を伝授したことで武蔵の二刀流が完成したという説もある。
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