世継ぎ問題
天正2年(1574年)9月、家督を譲った盛興が29歳で急死してしまう。
まだ蘆名家の世継ぎも誕生しておらず突然のことであった。
原因は酒の飲み過ぎによる酒毒だとされ、盛氏は領内に禁酒令を出したという。
盛氏は戦国大名の中では珍しく側室を持たなかったので、子供は男子が1人に娘が1人だけであった。
男子がいない盛氏は仕方なく人質としていた二階堂盛義の子・盛隆を養子として、盛興の未亡人を娶らせて蘆名家の家督を継がせて自分が後見人となった。
このことが後に家臣たちの確執を生み、蘆名家衰退の原因になっていく。
天正6年(1578年)には御館の乱で混乱している越後の上杉景勝に向けて出兵するなど積極的な攻勢を見せた。
しかし、重臣たちの間には蘆名家の家督を継いだ盛隆は蘆名家との血縁関係が薄く、二階堂氏出身の新当主ではついていけないと不満が高まっていった。
また、長年に渡る田村・佐竹軍との争いで、蘆名家の財政もひっ迫していた。
蘆名氏の滅亡
盛氏は晩年、伊達輝宗(伊達政宗の父)から、輝宗の次男・小次郎が成長したら盛氏の養子にすることを承諾していた。
天正8年(1580年)6月17日、盛氏は60歳で亡くなった。この時はまだ小次郎が小さくて養子縁組は行われていなかった。
後を任された盛隆は上杉景勝の重臣・直江兼続の切り崩し工作などで攻められて、蘆名家の国力は徐々に弱体化していく。
蘆名家の内部にも盛隆を良く思っていない家臣が多く、なんと天正12年(1584年)10月6日、盛隆は家臣の大庭三左衛門に襲われて24歳で死亡した。
蘆名家の家督は生後1か月の亀王丸が継ぎ、伊達輝宗が後見することになった。
しかし、輝宗の本心は盛氏と約束した自分の次男の小次郎が蘆名家の家督を継ぐことであった。
亀王丸の擁立には佐竹義重の介入があり、元は敵対関係だった蘆名と佐竹の関係は近くなっていった。
その後、亀王丸はわずか3才で死去し、小次郎と佐竹義重の次男・義広との間で蘆名家の後継者争いが起き、義広派が勝利し当主は蘆名義広となる。
この頃、伊達家の家督を継いだ伊達政宗は、蘆名と佐竹の関係を危惧し、大きな決断をした。
長く続いた蘆名氏との同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め滅ぼしてしまい、結果として交通の要所と肥沃な土地の会津を手に入れたのだ。
おわりに
会津の蘆名氏一族は、桓武平氏の流れを組む名門であることから室町時代より会津の守護を務めて、第16代の蘆名盛氏が大きく勢力を拡大した。
武田信玄が称賛した優れた蘆名盛氏だったが、側室を持たずに男子の跡継ぎが1人しか生まれなかったことで、世継ぎ問題から蘆名家は衰退してしまう。
蘆名盛氏の一人息子、盛興が29で急逝してからの跡継ぎは全員養子で、他の勢力の台頭と内部の混乱を招き、蘆名家の弱体化と滅亡につながった。
戦国大名として後継者問題を生前に解決することはとても大事であり、隣国の上杉謙信も後継者問題をはっきりせずに急死したために「御館の乱」が起こり、やはり国力が弱まっている。
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