疋田豊五郎とは
疋田景兼(ひきたかげとも)通称豊五郎(ぶんごろう)は剣聖として名高い新陰流の創始者・上泉信綱の高弟で「新陰流の四天王」と称された剣豪である。
当時畿内随一と評判の柳生宗厳(後の柳生石舟斎)を打ち負かしたという説もあり、織田信忠・豊臣秀次・細川藤孝(細川幽斎)・黒田長政ら有力大名に新陰流を指南した人物である。
己の剣の探求に生き、柳生新陰流に疎まれるほどの剣豪・疋田豊五郎について追っていく。
出自
疋田豊五郎(ひきたぶんごろう)は天文6年(1537年)加賀国石川郡で疋田景範の次男として生まれたとされている。
生年についての詳細な資料はなく、通説では天文6年となっている。
母が新陰流の創始者・上泉信綱の姉であったため、豊五郎は幼い時から叔父である信綱に剣術を学び、剣術修業を行う信綱の世話係も務めていた。
信綱と共に上野長野氏の長野業正に仕え、武田信玄や北条氏との戦いで活躍していたという。
新陰流以外にも、小笠原家の念流や雲林院弥四郎から新當流も学び、剣術だけではなく槍や薙刀の名手でもあったという。
上野長野氏滅亡後は、信綱と共に武田信玄から仕官の申し出があったが、その申し出を断り、新陰流の普及のために信綱と共に諸国流浪の旅に出かけた。
新陰流の四天王
豊五郎は信綱のもとで稽古を重ね、門人の丸目蔵人・神後宗治・奥山公重と共に「新陰流の四天王」と呼ばれるようになる。
剣聖・上泉信綱に挑戦してくる者が多かったため、挑戦者の実力を見るために常に豊五郎が信綱の前に挑戦者と立ち会い、実力を見たという。
豊五郎は立ち合いの際にはいつも「その構えは悪しうござる」と、相手に声をかけてから打ち込んだという。
剣聖・上泉信綱に挑戦しようとした者はそれなりの実力者であるにもかかわらず、上から目線のような言葉を投げかけるのだから、相当の自信家だったのかもしれない。
永禄6年(1563年)豊五郎は信綱と共に、もう1人の剣聖・塚原卜伝から「一の太刀」を伝授された伊勢の剣豪武将・北畠具教の要請で、全国から剣豪たちが集まる館に招かれた。
北畠具教は全国から集まる剣豪たちをこの館で庇護しており、その中には槍の宝蔵院胤栄や、畿内一の兵法者と名高い柳生宗厳(後の柳生石舟斎)がいた。
北畠具教の紹介により柳生石舟斎が信綱に挑戦した時、いつも通り最初に豊五郎が相手を務め、3度立ち会って3度とも豊五郎が圧勝した。(石舟斎と戦ったのは同じく弟子の鈴木意伯だったという説もある)
石舟斎はその後3日に渡って信綱とも立ち会ったが、ただの1度も勝てなかったためにその場で信綱に弟子入りを志願したという。
豊五郎は柳生の里に信綱と共に同行し、石舟斎たちに新陰流を指南した。
師の信綱が足利義輝に呼ばれて京に上った時には、豊五郎が柳生の里に残って指南していた。
匹夫の剣
信綱は京に上る前に、石舟斎に「無刀の位」という極意の課題を出した。
その後、京から戻った信綱に、石舟斎が課題の「無刀の位」を披露すると、信綱は豊五郎ではなく石舟斎に新陰流二世の印可状を与えた。
そして豊五郎には「これからは1人で諸国を巡り、自らの兵法を打ち立てよ」と進言した。
豊五郎は単身で諸国を廻り、その間に織田信忠・関白の豊臣秀次・黒田長政らのもとで、新陰流の指南をしている。
関白・豊臣秀次の剣術指南をしていた時に、富田流三家の1人である長谷川宗喜との他流試合を命じられた。
しかし、豊五郎はそれを拒否して一切応じなかったため、秀次の側近たちは「疋田は臆した」との噂が広まる。
それを聞いた豊五郎は「卑怯と言うならそれでよい、竜虎相打つ時は必ずどちらかが傷つくもの、剣術は遊戯ではないので軽々しく命を賭けて試合をする訳にはいかない」と気にかけなかったという。
時の関白の命令でも師・信綱の教え「命を尊ぶ」を守り、無駄な争いや命のやり取りを避けた豊五郎の態度は、良い意味でも悪い意味でも評判になったという。
徳川家康は柳生石舟斎の「無刀の位」に驚嘆してすぐに指南役にと請うたが、石舟斎は高齢を理由に息子の柳生宗矩を推した。
その後、関ヶ原の戦いに勝った家康は将軍となり、柳生新陰流は将軍家指南役となった。
ある時、豊五郎は徳川家康の前で演武をしたが、家康はその剣技を見て「匹夫の剣」と評し、豊五郎に入門しなかったという話が広まった。
こうした流れから、天下一の兵法となった柳生新陰流の開祖・柳生石舟斎が、10歳近く若い豊五郎に3度も連続で負かされたことを「良」としないために「匹夫の剣」という話を創作したのではないかとされている。
それほど柳生新陰流は、豊五郎の新陰流を脅威と感じていたのかもしれない。
疋田陰流
その後も豊五郎は諸国を修業して巡り、新陰流の弟子を増やしていく。
やがて豊五郎は丹後の細川藤孝(細川幽斎)に150石で仕えるも、文禄4年(1595年)に突然剃髪して栖雲斎(せいうんさい)と名乗り、嶋田清六という弟子を1人だけ連れて巡国修業に旅立った。
豊五郎はこの巡国修業で24名以上と他流試合を行い、全ての試合で竹刀を使い、木刀や棒・竹刀を使う相手に全勝している。
巡国修業の間には柳生の里に立ち寄り、石舟斎の嫡男・柳生新次郎に伝書を渡している。
柳生とのつながりや関係は深かったようで、世間の「柳生と疋田の確執」という噂の真偽は謎となっている。
6年間の巡国修業を終えて、豊前小倉藩主・細川忠興に150石で仕え、自分の修業を書物にまとめて細川幽斎に上梓する。
その後、一時肥前唐津藩に仕官した後にまた諸国を巡り、最期は慶長10年(1605年)大坂城で客死したとされている。(豊五郎が亡くなる年には他説もある)
豊五郎の新陰流は子の疋田景吉が継承し、景吉から継承した山田勝興が新陰流から「疋田陰流」(ひきたかげりゅう)と名乗った。
豊五郎が細川家仕官時代に弟子であった、上野左右馬助景用から伝えられた系統が、江戸時代中期に5家に分かれて伝承され、その中の和田家の流れが現在に伝えられているとされている。
おわりに
疋田豊五郎は剣聖・上泉信綱の教え「命を尊ぶ」を守り抜き「臆した」と噂されてもまったく動じない人物であった。
同じ新陰流の高弟である柳生石舟斎の柳生新陰流が徳川家康の指南役となり、やがて徳川将軍家の指南役となる。
疋田豊五郎の剣豪としての存在や強さは、歴史の彼方に追いやられているのではないかと感じられる。
それが柳生一族の陰謀なのか、織田信忠・豊臣秀次に仕えた影響なのかは不明だが、日本史上屈指の剣豪だったことは間違いなさそうである。
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広めたのが誰にしろ「将軍が学ぶべきなのは自分で相手を斃す技ではなく、もし護衛をかいくぐって暗殺者に狙われるようなことがあったとき、味方がかけつけるまで自分の首を守る技である。相手を制するのは組織力・数の力に任せればよい、それこそが『なんでもありの実戦の武』というものである。個人の剣客として最強かどうかなどというのは匹夫の勇で真の生存競争に利するものではない、生き残るには政治力のほうが重要であり交渉の場で平静を保ち気圧されないための精神修養を旨とする柳生新陰流こそが指南役としてふさわしい」というのは正当な理かと思います。
現代の格闘家にも言えますが、目潰しだの金的だのを駆使したところで、自分一人で戦う想定をしている時点で真の意味でなんでもありの実戦武術とは言えない中途半端なものでしかないと思いますよ。
更に言えばだからこそ西洋には伝統武術は残らなかったし、そんなものはなくとも工業力と経済力さえあれば世界を征服することができたわけですし。