尼子晴久とは
尼子晴久(あまごはるひさ)は、中国地方を制した出雲の戦国大名・尼子経久(あまごつねひさ)の孫で、出雲をはじめ隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆8カ国の守護を兼務し、室町幕府の相伴衆に任じられ、尼子氏の最盛期を築き上げた武将である。
毛利元就の居城・吉田郡山城の戦いでは敗れたが、難攻不落の名城・月山富田城において大内義隆・毛利元就の連合軍を破り、毛利元就をあと一歩のところまで追い込み、何度も毛利元就を苦しめた武将・尼子晴久について解説する。
尼子晴久の生い立ち
尼子晴久は永正11年(1514年)2月12日、出雲国(現在の島根県)の戦国大名・尼子経久の嫡男・尼子政久の次男として生まれる。
祖父・尼子経久は、山陰・山陽の11か国を制圧して中国地方一の戦国大名として君臨していた。
本来であれば経久の嫡男である父・政久が尼子家の家督を継ぎ、その跡を兄が継ぐはずであったが、兄が早世したために次男の晴久が政久の跡目となる。
しかし、父・政久は永正15年(1518年)晴久が4歳の時に戦場で亡くなってしまい、4歳の晴久が祖父・経久の世子(直接の跡取り)となった。
元服後の初名は詮久(あきひさ)と称していた。ここでは晴久と記させていただく。
この頃、尼子氏は重臣の亀井秀綱らが尼子傘下の毛利氏の家督相続問題に介入して、毛利元就の異母弟・相合元綱を支持した。
このため家督を継いだ毛利元就は尼子氏から大内氏へつくことになり、尼子氏は安芸や備後の影響力を失い、元就を敵に回すことになり徐々に衰退が始まっていった。
享禄3年(1530年)、晴久の叔父・塩冶興久(えんやおきひさ)が謀反を起こす。この乱は尼子氏を二分する大きな乱となった。
興久は経久の軍を何度も撃退するなど奮闘したが、この乱は天文3年(1534年)に鎮圧され、興久は妻の実家である備後山内氏の元へ逃れた後、天文3年(1534年)に自害した。
天文6年(1537年)、祖父・経久の隠居により、晴久が家督を継いだ。
吉田郡山城の戦い
天文7年(1538年)晴久は、大内領であった石見銀山を攻略し、因幡国を平定した後に播磨国へと侵攻、石見・因幡・播磨の守護・赤松晴政に大勝するなど勢力を拡大する。
家督を継いでからの立て続けの勝利に気をよくしたのか、天文9年(1540年)には大内義隆についていた安芸の有力国人・毛利元就を攻める。
祖父・経久はこの遠征に反対だったというが、血気にはやる晴久は遠征を強行する。
毛利攻めの前には、石見国の小笠原氏や福屋氏、安芸の吉川氏や安芸武田氏、備後国の三吉氏などの有力な国人衆を味方につけている。
尼子の軍勢は3万、対する毛利軍3,000しかいなかった。元就は大内氏へ援軍を依頼したが、安芸武田氏の奮戦によって大内軍の援軍が遅延し、毛利軍との合流が出来ないでいた。
そんな不利な状況に元就は、居城・吉田郡山城で籠城し奮戦。その後、陶隆房(陶晴賢:すえはるたか)率いる大内軍の援軍が到着し、晴久は大敗を喫して出雲へと逃げ帰った。(※吉田郡山城の戦い)
尼子氏を頼りにしていた安芸武田氏は、晴久の敗走によって大内軍の攻撃で滅亡。さらに天文10年(1541年)祖父・経久が死去。
こうした流れにより尼子勢力下の国人領主たちは大量に大内氏へと寝返り、尼子氏は危機的状況に陥った。
第一次月山富田城の戦い
天文11年(1542年)、大内義隆が自ら大軍を率いて、晴久の居城・月山富田城を攻める。(※第一次月山富田城の戦い)
尼子勢は難攻不落の山城・月山富田城で徹底抗戦し戦いは長期化。大内軍が疲弊して撤退を始めると寝返っていた国人衆たちが今度は尼子につき、戦況は完全に逆転した。
尼子軍は追撃して大内軍に大打撃を与え、殿(しんがり)を任された毛利元就は、九死に一生を得るほどの大損害を受けた。
この戦い以後、晴久は失った勢力の回復に尽力、大内氏についた者たちを追放や粛清し、出雲の支配体制を強化して周辺地域へ侵攻した。
大敗を喫した大内義隆はすっかり戦意を無くし、晴久は天文12年(1543年)に奪取された石見銀山を奪い返した。
8カ国守護
勢力を拡大していく晴久のもとに、天文20年(1551年)、大内義隆が陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって死去したとの報が届く。
大内義隆が亡くなった影響もあり、天文21年(1552年)晴久は、室町幕府第13代将軍・足利義輝より、山陰山陽8カ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任じられた。また、朝廷から従五位下修理大夫を賜り、幕府・朝廷から、尼子氏が中国地方において優勢な勢力であると名実ともに改めて認められた。(※尼子氏は宇多源氏佐々木氏流京極氏であり、極官は従五位下(刑部)少輔であった)
しかし、このことが尼子氏内部に軋轢を生む。尼子氏には軍事を支える「新宮党」という有力な一族があった。
新宮党は精鋭の軍事集団で、率いていたのは晴久の叔父・尼子国久。彼は晴久の正室の父であり義父であった。
8カ国守護就任後、尼子氏の家臣団の統制強化を図る晴久に対し、出雲国内では尼子宗家を凌ぐ力を持っていた新宮党の国久らは不満を抱くようになった。
そんな尼子氏の不和に目をつけたのが、毛利元就である。
策士の元就は、国久が謀反を企てているという噂を流し、国久が毛利と内通しているかのような手紙を偽造し、晴久の手に渡るように仕組んだ。
新宮党の横暴を苦々しく思っていた晴久はこの手紙を信じて、天文23年(1554年)妻の死を契機に尼子国久を討ち、新宮党を壊滅させてしまった。
忍原崩れ
弘治元年(1554年)毛利元就と、謀反により大内氏の主導権を握った陶晴賢(すえはるたか)が対立して「厳島の戦い」(いつくしまのたたかい)となる。
陶晴賢は元就の謀略と奇襲に敗れて自害。この時、晴久は備前・浦上氏の天神山城を攻撃していた。
大内氏の崩壊を石見侵攻の好機とした晴久は、兵を引き揚げ石見へと侵攻する。
「石見銀山を制する者は中国地方を制する」とまで呼ばれた宝の山、石見銀山を巡って晴久と元就の間で争いが起きる。
石見銀山の防衛拠点は山吹城であった。ここを制した者が石見銀山を支配することになる。
弘治2年(1556年)、元就は7,000の兵を山吹城攻略に送るが、晴久は2万5,000の軍勢で対抗。
両軍は交通の要衝であった忍原(おしばら)で激突した。
忍原は谷川になっており、尼子軍は地形をうまく利用し、山の上から石を落として攻撃して毛利軍に勝利した。(忍原崩れ:おしばらくずれ)
弘治3年(1557年)、元就に追い詰められた大内17代当主義長が自害。
大内家の所領の大半が元就のものとなり、その後、元就は何度も石見銀山の奪取に挑み続けたが敗北し、晴久の存命時はついに石見銀山を奪い取ることはできなかった。
急死
その後、尼子の領国のほぼ全てが最前線となり、晴久は毛利元就・三村家親・浦上宗景・山名祐豊などと一進一退の攻防を繰り広げる。
備中・美作などの東山陽方面では浦上氏や三村氏などを撃破し、西山陽では元就と激戦を繰り広げた。
戦いに明け暮れる中、永禄3年(1560年)12月24日に晴久は急死した。死因は脳溢血だとされている。
余りの急死に暗殺説(毒殺)もあったという。享年47歳、戦いに明け暮れた生涯であった。
家督は嫡男・義久が継いだが、後に元就に月山富田城を攻められ義久は降伏、石見銀山も奪われてしまった。
おわりに
尼子晴久は大叔父・尼子久幸から「短慮で大将の器に乏しく、血気にはやって仁義に欠けている」と評されている。
偉大な祖父、尼子経久と比べるといまいち評価は高くないが、尼子氏の最大領土を築いたのは晴久であり、中央集権化にも成功、さらには「謀神」とまで呼ばれたあの毛利元就を何度も破っている。
宿命のライバルとして戦った晴久の死を聞いた元就は「一度でいいから旗本同志で戦いたかった」と言ったという。
「中国地方の名家及び大内氏」とあるが、大内氏を指していることにはならないので、中国地方の名家が何を指しておるのかわからない。また、「名家」が何を指しているかにもよるが、尼子氏は宇多源氏佐々木氏流京極氏であり、極官は従五位下(刑部)少輔であり、家格が上昇していないのではないか。
また、従五位下は織豊政権後期や武家官位制が整備された幕藩体制以前の武家の官位としてはかなり高く、並んでいるどころか超越しているように感じる。
また、「石見銀山があるのは山吹城。」では実際には石見銀山の安全保障のために山吹城が築城されているのに、山吹城内に石見銀山があるように記載されている。
ご指摘誠にありがとうございます☺
修正させていただきましたm(_ _)m